~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
紅 白 Part-01
それからほどない慶応元年師走しわすの二十二日、局長近藤勇が、芸州広島の出張先から戻って来た。
随行した参謀伊東甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎も、同様、旅塵りょじんにまみれた姿で花昌町かしょうちょうの新屯営に入った。
とし、留守中はご苦労だった」
近藤は歳三の肩を大きくたたいた。近藤は、どこか、変ったようであった。
ひと月ぶりで歳三を見る眼も、どこかしら冷たいようである。
(妙だな)
歳三のこまかい神経が、働いた。
その夜、幹部の酒宴があった。
近藤は、杯を二つ三つあけると、真赤になった。本来、下戸である。そいのくせ、
「うまい」
と含みながら言った。
「諸君、酒はやはり京だな」
しかし、それ以上は飲まない。眼の前の膳部ぜんぶのものを大いに食い、大酒でも飲んだように高調子で談論した。
おもに長州の情勢についてである。
「長州はうわべだけは禁廷様と幕府に対したてまつってひたすら恭順をみせかけているが、あれァ、まるっきりのねこっかぶりだよ。背後でやつらは武備をととのえている」
「ほう」
留守の幹部は、みな驚いた。
会津藩は、徹底的な長州ぎらいだから、近藤もその眼で長州を見て来ている。
(元来、長州藩には、天下に野望がある)
と、近藤はみていた。毛利候は将軍になりたがり、天皇を擁して毛利幕府を作ろうとしている。長州人にとって尊王攘夷はその道具にすぎぬ、と近藤は憎悪ぞうおをこめて信じていた。近藤だけでなく、母藩の会津藩が上下ともそう思い込んでいるし、のちに長州の友藩になった薩摩藩などは、強烈にそう信じ込んでいる。
その証拠に、薩長同盟の密約の時、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)は容易に腰をあげなかった。その疑惑があったからである。
「幕府は手ぬるい」
と、近藤は、吐き捨てるように言った。
「いま防長二州の四境に兵をすすめ、毛利家を叩きつぶして天領(幕府領)にしてしまわねば、どえらいことになるぞ」
「しかし、近藤さん」
と、伊東は白い顔をあげた。
伊東には、べつの見方がある。
「長州は去年、馬関海峡で四カ国の艦隊に対して、一藩でもって攘夷を断行している。天下の志士は、長州が自藩の滅亡を恐れずに攘夷を断行したことに喝采かっさいを送った。近藤先生、あなたも攘夷論者でしょう」
「そのつもりです」
まぎれもなく新選組結党のそもそもの主旨であった。
「それなら、もっと柔軟な長州観があってしかるべきでしょう。長州は、朝廷の御方針を奉じて攘夷を断行し、不幸夷狄いてきの砲力が勝っていたために、沿岸の砲台はことごとく叩き潰された。その上、幕府の征伐をも受けようとしている。長州は瀕死ひんしを負っている。他にいかなる非違があるとはいえ、これを討つのは武士ではありませんよ」
「武士ではない・・・」
近藤は、はしをとめた。
「伊東さん、武士ではないと言われるか」
「そうです」
伊東は、近藤の眼をじっと見つめて微笑し、さらに議論をつづけた。利口な伊東は近藤という男を知りぬいている。近藤は、知的な論理のもってゆきかたよりも、むしろ彼の情緒に訴えるほうが、理解しやすい頭脳を持っていた。
2023/10/12
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