~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
与兵衛の店 Part-03
その翌日、伊東甲子太郎は、腹心の新井忠雄を連れて、尾州名古屋にった。
── 尾州徳川家の動向が微妙である。
と、伊東は言い、その情勢を見て来るというのが近藤への理由だが、本心は、尾州藩における勤王派との意見交換であった。というより、その奥に、もう一つ本音ほんねがある。
留守中に七里が土方歳三をる。おそらく隊中大騒ぎになるだろうが、その巻きぞえを食わぬ用心のためである。
── 七里さん、私は九月の二十日過ぎには帰洛する。仕事はそれまでに願いたい。
と念をおしてある。
歳三。── まだ知らない。
近藤がちかごろ屯営に落着いているのを幸いに、隊内なかは近藤にまかせて、しきりと市中巡察に出ていた。
いつも、何番隊かえお交替で連れて行く。
歳三が京の市中に出れ、大路小路は、シンと水を打ったように静まるといわれた。
その日、沖田総司の一隊を連れて、夕刻から屯営を出た。
高辻たかつじの山王社の前で、落日を見た。振り向くと、境内の大銀杏おおいちょうのむこうに赤光しゃくこう西山にしやまの雲にしたたらせながら、陽が落ちて行く。
豊玉ほうぎょく宗匠、句が出来ませんか」
と沖田がからかった。
「おれァ、秋の句が苦手でね」
「四季、どの季節ならいいのです」
「春だな」
「ふうん」
意外なことを言う、と顔を、沖田はしてみせた。
「土方さんが、春ですかねえ」
「不満かね」
「べつに不満じゃありませんが」
「おれは春なのさ」
なるほど、沖田がのぞいた例の「豊玉発句帖」にも、春の句が圧倒的に多かった。
一見冬のこごえそうな季感を、この男の性分なら好きだろうと思ったのだが。
「春の好きな人は、いつもあしたに望みをかけている、と云いますね」
「そうかね」
東洞院ひがしのとういんを北上した。
ここから六角ろっかくにいたるまでのあいだ、諸藩の京都屋敷が多い。水口みなぐち藩、芸州広島藩、薩摩藩、おし藩、伊予松山藩。
このあたりの京都詰め藩士も、道で新選組巡察に行くあうと、そっと道を避ける。
蛸薬師たこやくしの角まで来た時、隊士一同提灯ちょうちんをつけた。
「総司、ちょっと思惑がある。ちょとそこまでぶらぶらするから、ここで別れよう」
「どこへいらっしゃるです」
とは、沖田は言わない。
沖田は、歳三がどこへ行くかを、おぼろげに察している。
「では、お気をつけて」
「ああ」
歳三は、蛸薬師の通りを西へ歩いた。
例の女の家である。お雪。
女は、いた。まるで歳三の来るのを待っていたかのように、淡く化粧けわいをしていた。
「そこまで来たので。──」
と、歳三は女の顔から眼をそらしながら言った。これだけの羞恥しゅうちをみせるのは、ないことである。
「ご迷惑だろうか」
「いいえ、おあがりくださいまし。今お茶をれますから」
訪ねるのはもう七、八度目で、お雪はすっかり物腰がやわらいでい。
が、歳三はお雪の手もにぎらない。どういうものか、この男には似ず、お雪にだけはそういう振舞いに出たくなかった。
いつも、世間話をして帰る。
江戸の話、子供のころのこと、義太夫ぎだゆうのこと、京の市井しせいのことなど。
歳三は、お雪の前ではひどく饒舌じょうぜつな男になった。近藤や沖田が、もしかげで歳三を見ていたら、別人ではないかと思っただろう。
子供のころの話など、まるで際限もなくしゃべった。
2023/10/15
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