~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
与兵衛の店 Part-04
お雪は、頭のいい聴き手だった。いちいちうなずいたり、低くて響きのいい笑い声をたてたり、ときには、つつまいくまぜかえっしたりした。
歳三はふしぎな情熱でしゃべった。とくにおもい出ばなしになると、熱を帯びた。
まるで、自分一代のことを、お雪に伝え残しておきたいというような情熱だった。
「お袋はね。三つのときになくくなった」
と、他人が聞けば愚にもつかぬ話である。
「お雪さん。あなたは武州の高幡不動たかはたふどうというのを知っていますか」
「ええ、名前だけは」
「母親はあの村の出でね。女のくせに酒が好きだったそうだ。その血は、姉のおのぶも受けていて、夜は必ず銚子ちょうし一本か二本はから・・にしている」
「そのおのぶさまが、お母様がわりだったのでございますね」
「むこうはそのつもりだったんだろう。私は姉よりも婿むこの佐藤彦五郎というほうにいていて、石田村の生家に居る時よりも日野宿の佐藤家に居る方が多かった。この人は日野一帯の名主でね、お父さんの代から我々の天然理心流の保護者だった。彦五郎義兄あにも、剣は免許の腕です」
「おのぶ姉様は」
と、お雪は兄弟の方に感心がある。
「お母様似でいらっしゃったんでしょう」
「酒だけはね。顔も気性も似ていないそうだ。私の母親は、むろん私などは幼かったから覚えていないが、姉や兄たちから聞くところでは、酒は、こう」
と、言いかけて歳三は口をつぐんだ。
今までどうして気づかなかったのかと思うのだが、小さな発見があった。それが胸の中でぱちんとはじけて、胸いっぱいに驚きとなって広がった。
(この女に似ている。──)
自分がなぜ、しげしげとこの家を訪ねて来るかが、自分でもやっとわかった。
お雪という女は、歳三がいままで自分の好みにかなうとして相手にして来たどの女の型にもはまらなかった。どちらかと言えば、以前の貴種きしゅ好みな歳三なら、興をひくはずのない型である。それがかれている。その理由が、自分でもよくわからなかった。
「どうなさいました」
「いや、なあに。・・・・」
歳三は、薄手の京焼の煎茶茶碗ちゃせんぢゃわんを、そっと膝もとからひろいあげた。
さりげなく話題を変えた。
「武士になりたくてね」
「え?」
「いや、私がさ。だから小僧のころ、生家の庭に矢竹を植えてね。戦国の頃の武士のやかたというものは必ず矢竹を植えたもんだというのを耳にしたもんだから、自分もそうするのだといって植えた」
話は、とめどもない。
そのらち・・もない歳三の饒舌を、お雪は貴重なもののように相槌をうってくれるのであるる。
(この人は話しに来ているのではない)
と、お雪は思っていた。
(なにか、別の自分になるために此処ここに来ている)
しゃべる、というのではなく、歳三は、自分の心の中にある別な琴線を調べるために来ているようであった。
そのくせ、一方では、
(お雪は好い)
と、かなしくなるほど想っている。
(いつかは抱こう)
そう思いつつ、この家に来てしまうと、そんなとりとめもない饒舌で、彼自身の僅かしかない時間を消してしまう。
2023/10/15
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