仁平三年正月、忠盛は、五十八歳で死に、息子の清盛きよもりが、跡を継いだ。
清盛は、父親にもまして、才覚並々ならぬ抜け目のない男だったらしい。保元ほげん、平治へいじの乱と、権力者の内紛に、おちょっかいを出しながら、自分の地歩は、着々と固めていって、さて皆が、気づいた時分には、従一位じゅういちい、太政大臣だじょうだいじん平清盛という男が、出来あがっていた。異例のスピード出世というところである。
この時代は、成功も失敗も、一様に、神仏に結びつけたがる傾向があった。平氏の繁昌はんじょう振りをみて、これは、熊野権現くまのごんげんのご加護だと誰からともなく言い出した。ところが、この噂の出どころは、実は清盛なのである。
伊勢から熊野へ渡る航海の途中、鱸が清盛の船の中に飛び込んで来た。
乗り合わせていた案内人は、この時とばかり、
「こりゃめでたい、熊野権現のおしるしですぜ」とお世辞を言った。もちろん、清盛は、心中でニヤリとしたが、そこは、神妙な顔で、
「うん、わしが昔読んだ書物に、天下を平定した周しゅうの武王ぶおうの船にも、白魚が踊り込んで来たとかいう話があったのを覚えているよ。とにかくめでたいことだから、こいつをみんなで喰おうじゃないか」
と言った。清盛の脳のめぐりの良さも知らず、乗船の一同、恐懼きょうく感激して、一切れの魚を味ったに違いない。予想通り、この話が、巷ちまたに伝えられて、熊野権現加護説を生み出したのだから、まさに清盛の思う壺つぼだったというべきである。
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