平家一族は、高位、高官の顕職を、ほしいままにし始めた。一寸見廻しただけでも、長男重盛は、内大臣ないだいじん兼左大将さだいしょう、次男宗盛むねもりは、中納言ちゅうなごん右大将、三男知盛とももりが三位さんみの中将、孫の維盛これもりが四位しいの少将といった具合である。このほかに数えあげれば、きりがないくらいで、参議さんぎ、大、中納言、三位以上の公卿十六人、殿上人三十余人、各地の地方官がざっと六十何人という盛況だった。
清盛は、息子のほかに、八人の娘を持っていたが、これ又、揃いも揃って、権門、貴顕に縁づいている。即ち、花山院かざんのいん左大臣の奥方、建礼門院けんれいもんいといわれた安徳あんとく天皇の生母、六条摂政ろくじょうのせっしょう藤原基実ふじわらのもとざねの奥方で白川院と呼ばれた人、普賢寺ひげんじ藤原基通もとみち夫人、冷泉大納言れいぜうのだいなごん夫人、七條修理大夫しちじょうしゅうりだいふ夫人、今一人は、白川法皇の女御にょうごで、最後は、﨟ろうの御方おんかたと呼ばれる、花山院の上﨟じょうろうであった。
|