~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
 おう (一)    ♪
当時、京都には、妓王、妓女ぎじょと呼ばれる、白拍子しらびょうしの、ひときわ衆に抜きん出た姉妹があった。その母も刀自とじ と呼ばれて、皆、白拍子であった。
清盛が目をつけたのは、姉の妓王で、片時も傍を離さずに寵愛していた。おかげで、母親も妹も、家を建てて貰ったり人にちやほやされて、結構な暮しをしていた。
白拍子というのは、鳥羽天皇の時代に、男装の麓人が、水干すいかん立烏帽子たてえぼしで舞を舞ったのが始まりとされているが、それがいつか、水干だけをつけて踊る舞姫たちを白拍子と呼ぶようになったのである。
京の白拍子たちは、玉の輿こしにのった同性の幸福をうらんだり、ねたんだり、中には、せめてその幸せにあやかりたいものだと、妓王の妓をとって、妓一、妓二などと名前を変える者まで出るほどの評判であった。
その間にも、月日はいつか過ぎて、三年ばかり経った頃、加賀国かがのくにの生れだと名乗る一人の年若い白拍子が、彗星すいせいのように現れた。ほとけという変った名前を持つ、まだ十六歳のうら若い乙女おとめであった。この娘の舞を見た者は、優雅な姿態と、さす手、ひく手の巧みさに魅せられて、異口同音いくどうおんに、その素晴らしさをたたえるので、たちまち京の街の人気をかっさらってしまった。
ぽっと出の田舎いなか娘が、これほどの成功をかち得たのだから、満足してもよさそうなのに、欲望と野心は際限のないものである。仏は、自分を天下人である清盛に診て貰いたいと言い出したのである。
「私の名もこれほど宣伝されているし、清盛様だって噂ぐらい聞いている筈なのに、一度もぼうとしないんだから、待ってたってしようがないわ、どうせ、私たちは芸人で、芸を売るのが商売なんだから、押しかけたってかまうものですか」
若いだけに度胸が良い。思い立つと仏は、早速、紹介状もなしに清盛の邸へやって来たのである。今をときめく人気スターの訪問に、家来の方が喜んでしまった。
「今評判の仏御前が、参りました」
といそいそと、清盛に取次いだ。
「何、仏?」
清盛だって、名前ぐらいは、とっくに耳に入っているくせに、どこの仏が来たと言わんばかりの意地の悪い顔つきで家来を睨み据えた。
「それが、例の人気者の白拍子、仏御前の事でして」
「バカ者めが」
清盛は大喝だいかつした。
「どこの仏か神か知らないが、招ばれもしないでのこのこやって来るとは、何たる身の程知らずの女だ。第一、この清盛には、れきっとした妓王という白拍子がいるのを、知らんことはないだろう。とにかく、そういう、押し売りみたいな奴には用はないんだ、とっとと追い出してしまえ」
つむじを曲げたら、てこでもきかないという清盛が、頭に湯気をたてて怒っているのだから、家来も驚いて、青くなって出て行ってしまった。
側で終始、清盛の立腹を、はらはらしながら見ていた妓王は、元来が、気質のやさしい女である。興奮のしずまるのを待って、それとなくとりなしにかかった。
「そんなに私の事を大事にしていただきまして、何とお礼も申しようもないくらいですけど、でもねえ、芸人なんてものは、売り込みが、出世の第一なんですからねえ、それに聞けばまだ若い子らいいし、何だか、私も昔を想い出しちゃって身につまされてきますわ。一寸でも逢ってやるだけで、良いじゃありませんか? あれじゃ、余り身もふたもありませんわ、もう一度、思い直して下さいません?」
興奮がさめてみると、清盛にして、余り大人気おとなげないやり方で、一寸恥ずかしい気がしないでもない。その上、可愛い女に、やんわり口説くどかれれば、そこはそれ、男の弱味で、強いて反対も出来ないものらしい。
邸を出ようとしていた仏は、たちまち呼び返されて、清盛の前に連れて来られた。逢ってみると、何せ、今をときめく白拍子である。年は若いし、器量は良いし、その上、持ち前の度胸のよさで、清盛の前に出ても、ハイハキと受け答えをする様子が、いかにも溌剌はつらつとしていて、かつてない新鮮な色気を感じさせる。
今様いまようでも歌ってみろ」
といわれれば、
殿とのに逢えた嬉しさに、私の命も伸びるでしょう」
と、臆する色もなく、受け答えをしてから、目出度い歌を口ずさむ機転の良さに、清盛の気持も次第になごやかになってきた。
「歌がうまいのなら、舞うのもうまそうだな、一つ見せてくれないか。おい、こら、誰か鼓打つづみうちを呼べ」
さっきの怒りもどこへやら、いつか一座は、陽気なざかめきに満たされていった。
仏の舞姿は、一段とみごとであった。あでやかな姿形、豊かな声量、巧みな歌いっ振りに、いつか、清盛の目は仏に釘付くぎづけになっている。ひとさし舞い終わった時、仏を見てほっと我に返った清盛は、門前払いを喰わせたことなぞ、とうの昔に忘れたように、仏の袖をとらえて、口説き出すのであ。予想以上の上首尾は、嬉しいけれど、さすがに仏も、それほど、厚顔無恥な女ではなかった。
「いいえ、それはいけません、とにかく、私は妓王様がいらっしゃらなければお目通りも出来なかったんですもの。そればかりは、いくら私だって恥ずかしくて」
仏の拒否に遭って、清盛の執着は、一層つのってきた。
「何も、そんな、遠慮することはないではないか。だがな、お前が、妓王のいるためにそのようなことえお言い出すんだったら、妓王をくびにしちまえば良いんだろう。そうだ、それがいい」
「とんでもない」
清盛のとっさの思い付きに、仏は一層驚いた。
「一緒にご寵愛をうけるのさえ、気がひけるというのに、そんな、恩人を追い出して、私が居坐るなんてことがどうして出来ましょう、とにかく今日のところはこのまま返して下さい」
「いや、わしはお前が一目で、好きになったんだ、どうあっても、お前はわしのものにする。それより妓王、何だ、まだそんなところにうろうろしおって、お前は早くあっちへ行け」
清盛は、その場を去る事もならず、目のやり場に困って、隅にかしこまっている妓王に、なさけ容赦ようしゃのない言葉を浴びせかけた。
もともと、気の変りやすい清盛の許に奉公して、いつかは、こういう目にも遇おうかと折につけては想像していたものの、余りにも早くやって来た破局の意外さに、妓王は言葉もなく、涙ぐむばかりである。
思い立ったら、赤子よりも始末の悪い清盛のことだから、口答えなどはしたくとも出来ず、妓王は、三年の間、なれ親しんだ西八条の住居に別れを告げたのであった。別れる時、妓王は、居間の障子に一首の歌をかきつけた。
   もえ出るも かるるも同じ 野辺の草
       いずれか秋に あわではつべき
今は得意絶頂の仏さま、貴女あなただっていつ何時、私みたいなことにはなりかねないかも知れませんよ。── それは、妓王の精一杯の無言の抗議だったのである。
2023/10/20
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