~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
 おう  (二)    ♪
妓王が西八条からはなれたことはたちまち、京都中に知れ渡った。毎月欠かさず母の許に送られて来た、手当金もぱったり途絶えた。そして今は仏御前の親類縁者たちが、莫大ばくだいな仕送りで生活しているという噂がひろがっていた。清盛の寵姫であったあいだは、高嶺たかねの花よと諦めていた妓王が、一度び市井しせいの人間になると、あっちこっちから、口がかかって来た。しかし妓王は、もう二度と人の想い者にはなりたくなかった。清盛の屋敷でうけた手痛いショックは、かつての陽気で、明るい妓王の性格をすっかり変えてしまったのである。妓王は毎日外に出ず、内にひっそりとして暮らしていた。
その年も暮れて、春になったある日、清盛のところから、使いがやって来た。
「近頃如何どうしている? 仏がどうも退屈しているらしいから、慰めに来てくれ」
という虫のいい文句である。今更返事をするのもしゃくだから、ほったらかしておくと、
何故なぜ返事をしないのだ、来るか来ないかはっきりしたらどうなんだ、そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞ」
と今度は重ねて脅迫めいた伝言の仕方である。どんな残酷なこともしかねない清盛の気性を知っている母親は気が気でなかった。
「何とか返事したらどうなんだい? あの様子じゃ、お前、どんなことをされるかwくぁからないよ」
母はおれとなく、西八条へ行く事を勧める様子である。
「でもね、お母さん、考えてもご覧なさい、行くならば行くって言いますよ。行かないのに、行きませんなんてはっきりと言えるものですか。どっちにしたって、田舎に追放か、それとも殺されるか、私は、もう如何どうなたって構わないんです。おめおめ、あの人の前に出ることと比べたらその方がまだずっとましですわ」
「お前の気持は、よくわかるけどね、今の世の中で、あの方に反抗して、一体、どんな利益があると思う? 第一男女の問題なんてものは、千年も万年もって具合にいくもんじゃない。お前なんか三年間可愛がって頂いただけでも大したものと思わなくっちゃ。それに若いお前は、田舎のあばら屋でも我慢も出来るだろうが、私はどうじても都を離れたくないのだよ」
涙ながらにかきくどく母の言葉には、さからうすべもなく、妓王はいやいや、妹と他の二人の白拍子と連れ立って西八条へ出かけて行った。
その日妓王の通された席は、以前とは段違いの末席である。
悪いこと一つしたわけでもないのに、暇を出されて、おまけに席まで落されるなんて余りだわ。
今にも涙ぐみそうになるのをぐっとこらえている妓王の様子に、仏御前の方が胸一杯になってきた。
「そんな末席にお通ししなくたって、元はここがあの方の場所だったところなんですよ、あの方を、ここへお呼びなすったら?」
と言ったが、清盛は知らん顔である。仏御前はいたたまれず席を外してしまった。
すると清盛は妓王に、
「今まで、どうしていたんだ、何しろ仏が退屈しおって淋しがるからなあ、まァ歌ったり踊ったりして慰めてやってくれよ」
清盛の言葉に、妓王は口惜しさが胸に込み上げて来たが、じっとこらえて歌いだした。
   ほとけも昔は凡夫なり 我等も遂には仏なり。
   いずれも仏性ぶつしょうせる身を へだつるのみこそ悲しけれ。
俗謡ぞくように事よせて、切々と歌い続ける妓王の姿は、並み居る人の涙をそそるものがあった。清盛も少しは気の毒に思ったらしく、ねぎらいの言葉を与えて家へ帰した。
我が家に帰りつくと妓王は又さめざめと涙を流しながら、こんな生き恥をさらしているより死んだ方がよっぽど良いと母の膝によりすがって、かき口説くどく。妹の妓女も、姉が死ぬならと、暗に、自殺をほのめかす、年老いた母一人が、おろおろしながら、二人の短慮を戒め、もう一度考え直させようとする。それにつけても、清盛の仕打ちの口惜しさが、又想い返されて来て、母子おやこは又涙に埋れるのであった。
「お母さんの仰有おっしゃるのももつともです。それなら都に居さえしなければ、こんないやな目にもあわずに済むんですもの」
と妓王は、二十一という花の盛りにいさぎよく別れを告げると、髪を切って嵯峨野さがのの奥に小さな庵をつくって引籠ひっこもってしまった。姉の出家に刺激され、妓女も十九で髪を下ろし、念仏三昧ねんぶつざんまいに日を送るようになった。二人の娘に尼になられた母もやがて後を追い、ひっそりした尼僧庵の生活に入ったのである。
2023/10/20
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