~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
 おう  (三)    ♪
やがて春も過ぎ、夏も去り、初秋の風が吹き始める頃、漸く静かな暮らしにも馴れた三人の所に、意外にも人の訪れる様子がした。竹編み戸をひそやかに叩く音がした。
こんな山深く、人の訪れる事もない僧庵暮しである。さては魔性ましょうの者でも、来たのかと、恐るおそる戸をあけてみると、何と、仏御前が、旅装束のまま戸口にうなだれて立っていた。
「まあ仏さまではございませんか。一体、今頃、どうなすったのです」
妓王の驚く声に、仏も、おろおろと涙を流した。
「始めっからの事を申し上げるのも気がひけますけれど、とにかく聞いて下さい。西八条のお邸には、私の方からのこのこ出かけて行って、貴女のご尽力で、清盛さまにもお目にかかることが出来たのに、清盛さまから意外にも召し抱えられ、かえって貴女を不幸な目にあわせてしまいました。本当に私は申しわけなくてつい先達ても、お邸へ来て下さった時だって胸が一杯だったんです。今でこそ、豊かな生活をさせて貰って、結構ずくめで暮らしていたって、ああいう気まぐれな人のことですもの、いつ何どき、貴女と同じ身の上になるかわかりゃしません、貴女の書きのこして下すった歌を見ては、そのことばかり、考えていましたわ。一時皆さんの行方が判らず如何なさったのいかと思っていましたけれど、近頃、ここにこうやって暮らしていたっしゃる話を聞き、とうとう決心してやって来たわけなんです」
仏の真実味あふれる告白を聞いて今迄の憎しみも忘れ、三人はじっと聞き入った。
「いくらお暇をお願いしても、清盛様は駄目だとおっしゃるし、でも考えれば考えるほど、現世の楽しみなんて限りのあるものですものね。一時の楽しさに酔っても、あとあと、地獄に行くなんて、考えるだけでも恐ろしいことですもの。そう思うと矢もたてもたまらず、今朝思い立って、こんな恰好で来たんです」
とかぶっていた被衣かつぎを脱いでみると、闇にもほの白い坊主頭である。
「こうまで決心して来たんですもの。今迄のことは、どうぞ水に流して下さいませ。もし許して下さらないっておっしゃるんなら、仕方がありません。あてどなくどこかをさすらい歩いて、一生念仏して暮らすだけのことですもの」
それまで黙って聞いていた妓王は、思わず息をんだ。
「貴女の気持も知らないで、実は私、すこし、貴女のことをうらんでいたんですのよ。仏の道に帰依きえしたくせに、人をふらむなんてと思いながら、やっぱり若くてお美しい貴女の面影が心を悩ましていたんです。でもね、そうまでして訪ねていらした貴女を、仏さん、どうしてうらむ気持がおこりまようか。貴女が尼になられた心境に比べれば、私達の出家の動機なんて、お恥ずかしいくらいですわ。十七歳というお年でよくそのご決心がつきましたこと。貴女のような方こそ、私達のちっぽけな気持を導いて下さる方ですわ、こちらからこそ、お願いしたいくらいです」
今は、恩讐おんしゅうを越えた、晴れやかな表情で、妓王は仏の手をとって中へ導き入れた。
以来、四人の尼たちは、朝晩香華こうげを手向け、念仏三昧ねんぶつざんまいに日を送りながら、安らかな往生を遂げたと言われている。
2023/10/20
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