永万元年の春頃から、病みつき勝ちだった天皇の容態が急変し、六月には、大蔵大輔おおくらのたいふ伊岐兼盛いきのかねもりの娘に生ませた第一皇子に位を譲られた。間もなく七月、二十三歳という若さで世を去った。時に新天皇は、二歳という幼な児であった。
天皇の葬儀の夜、一寸ちょっと
した争い事が起こった。元々、天皇崩御の儀式として、奈良、京都の僧侶がお供をして、墓所の廻りに
額がくを打つ習慣があった。それも順序が決まっていて、第一が、奈良東大寺ならとうだいじ、次が興福寺こうふくじ、延暦寺えんりゃくじという順で、代々守られてきたのである。ところがこの日、何を思ったか、延暦寺の坊主が東大寺の次に延暦寺の額を打ちつけたのである。するとおさまらないのは興福寺である。あれこれと文句をいっているところへ、興福寺では、荒くれ者で聞こえる坊主が二人、鎧よろいに長刀なぎなた、太刀をかいこんであっという間もなく延暦寺の額を叩き割って、「うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るともたえず」と陽気にうたいながら、南都の坊主の中に引き揚げて行った。
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