~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
きよ みず えん じょう  ♪
二条帝の葬儀の際の、興福寺と延暦寺の争いは、このまま治まるとは誰も思わなかったが、案の定、それから二日おいて二十九日、比叡山の僧兵が、大挙して山を下りるといううわさが拡がった。この時誰が言い出したのか、
「何でも、後白河院が、平家追討を比叡山の坊主に申し付けられたって話だぞ」といったたぐいの噂が、まことしやかに、人の口から口へと語り継がれていった。
あわてた平家方は、御所のまわりをがんじがらめに警戒し、「一門は六波羅に集まって、善後策を協議することとなった。慌てたのは、後白河院も同じである。日頃から、平家の専横を快く思っていないだけに、アリバイが危ないとばかり、早速、車を飛ばして、これも六波羅へ駈けつけた。
何が何だかわからないから、清盛も不安で仕方がない。日頃から、沈着冷静を以て聞こえる重盛だけが、「そんなばかなことがあるもんか」と言って皆をなだめ廻っているが、目に見ない不安に脅かされた人達は、重盛の言葉にも耳を借そうとしなかった。
六波羅が、てんでに右往左往している間に、叡山えいざんの僧兵は、六波羅には、見向きもせず、清水きよみず寺へ押し寄せて、またたく間に焼き払ってしまった。とのあくあっという間の出来事で、どうもこれが、例の額打の仕返しとも思われるやり方であった。
坊主達が山に引き揚げて、漸く京の町にも生色がよみがってきたので、後白河院も、六波羅をあとにされた。平家側からお供は重盛唯一人つき従った。
「どうも、今度の後白河院の行動はふに落ちんところがあるな」
任を果たして帰って来た重盛に、清盛は口火を切った。
「前から、くさいくさいと思っていたんだが、とにかくあの人は、余り我々のことをよくは思っていないんだから、お前なんか、うまく丸め込まれて、利用されてるんじゃないのか?」
「まったく父上は、何でもずけずけいうんえすなあ、そういうことは、私だから良いようなものの、他人の前では言わない方がいいですよ。とにかく、余計な事を考える前に、もう少し行いを慎んで、人にも親切にそてやるもんですな」
日頃、余りに傍若無人な父の行為に腹立ちを感じていた重盛は、ずけずけと、言いにくい事まで言ってのけた。
「全く、あいつはくそ度胸の良い男だ」
清盛は、つくづくそう思った。
一方白川院の方でも、一党の面々が集まって、この度の、妙な噂の出どころに就いて、話が持ちあがっていた。
「どうも話がおかしいよ。平家追放なんて夢にも考えたこともないのになあ」
院としては、極力、身の潔白を証明したいところである。けげんな顔でそう言うと、傍に控えていた西光法師さいこうほうしという男が、何食わぬ顔で、
「これも皆、天の配慮ですよ、とにかく平家の奴らは目にあまりますからね」
と、深刻な表情をして言ったので、聞いている一座の者も一寸気味が悪く、それこそ、これが禿童かぶろに聞かれでもしたらと、みんな背筋に粟の立つ思いをしていた。
2023/10/23
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