~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
鹿しし たに (一)  ♪
思いがけぬ出来事があって、天皇元服の決め事も伸びのびになっていたが、二十五日に無事に行われた。基房は、太政大臣に昇任したが、何となく割り切れない昇級でもあった。
年も明けて、嘉応三年正月、無事に元服が済み、清盛の娘の徳子とくこ(後の建礼門院)が十五歳で女御になった。
内大臣、左大将、藤原師長もろながが、左大将を辞任した。この顕職の後釜あとがま をねらって、猛烈な就職運動が始まったのである。即ち、 徳大寺大納言実定とくだいじのだいなごんじつてい花山院中納言兼雅かざんいんのちゅうなごんかねまさい新大納言成親しんだいなごんなれいちか(故中御門藤中納言家成の三男)の三人がそれぞれ名乗りをあげていたが、中でも、家柄はよし、才能もあり、末は大臣大将と噂されていたのは徳大寺大納言で、いわば本命であった。
後白河院の後盾うしろだてがあるものの、どうも形勢不利とみて、この上は、天の助けにすがるよりほかはないと思った成親は、男山おとこやま石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうに、百人の坊主を頼んで、七日間、大般若経だいはんにゃきょうを、読経させた。その最中、八幡宮の一隅にある、甲良大明神こうらだいみょうじんの前のたちばなの木に山鳩やまばとが三羽飛んで来ると、お互いに食い殺し合って死んでしまった。とにかく鳩は、八幡大菩薩だいぼさつの第一の使者と信じられているので皆薄気味悪がって、早速、占をたててみると、
「天下騒乱の気配濃厚、臣下はよろしく謹慎すべし」
ということである。
成親は、これでこりたかと思ったが、占よりも現実の官位に余程執着があるらしく、今度は夜になると、賀茂かも上社かみやしろへ七日続けて参詣を始めた。七日目の晩、家で寝ていると夢を見た。上社の御宝殿ごほうでんの戸が開いて、さわやかな声がした。
   桜花 かもの川風 うらむなよ
     散るをばえこそ とどめざりけれ
という歌が聞こえて来た。これだけとめだてされても成親の野望は、一層激しくなるばかりである。今度は、御宝殿後の大杉の洞穴ほらあなに祈祷師を一人閉じ込めて、大願成就を百日祈らせた。すると、ある日、とどろく様な雷が鳴り出したかと思うと、たちまち大杉に落ちかかり、そのために、社殿の方へ燃え移りそうになったため、神官達がかけつけ、漸く事なきを得た。怒ったのは神官達で、外の騒ぎもものかは、未だに祈禱を続けている祈祷師を、洞穴から引きずり出すと、文句も言わせず、追い出してしまった。これだけ、手を尽くした猛運動にも拘らず、ふたをあけてみると、それは、成親の思惑おもわくをはるかに通り越したものであった。左大将は大納言右大将の重盛がなり、中納言宗盛は、」一躍う大将になっていた。とにかく当時の人事は、全く平家の独壇場であり、摂政関白の意向はもちろん、後白河院さえ無視されていた状態だったから、結果としては、むしろ、当然過ぎるほどの任命だった。
唯誰もがその任官を、疑いなく思っていた徳大寺大納言は、さすがに平家専横の世界に愛想がつきたのか大納言をやめて、家に引き籠ってしまった。
一方、成親の不満はつのるばかりであった。席次が上の徳大寺大納言や花山院に先を越されることは、彼としても仕方ないとは思っていたものの、宗盛が右大将になるだけは、どうにも我慢のならない事実であった。彼の気持の中に、平家への憎悪が次第に厚みをなし、幅をひろげ、形を整えてくるのは、或いは、当然の事だったかも知れない。しかし、世間はそうばかりもみないもので、むしろ、今までの成親が平家から受けた恩義の数々をあげ、重盛とは、平治の乱以来、因縁浅からぬ関係にある事を言い立て、彼の現実的なえげつなさを責めるのであった。
2023/10/26
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