~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
がん だて (一)  ♪
藤原氏の専横を抑え、院政の始りを開いた程の、豪気な帝であった故白川院が、
「賀茂川の水、双六すごろくさい、比叡の山法師、これだけは、いかな私でも手に負えない」
と言って嘆いたという話がある。山門の横暴振りは他にも伝わっている。
鳥羽院の時、白山平泉寺はくさんへいせんじを比叡山が、しきりに欲しがったことがあった。余り無理な願いであったから、あわや、却下と思われたが、大江匤房おおえのまさふさが、法皇をいさめて、
「お断りになってもようございますが、もしも、山門の僧兵共が、神輿みこしを先頭に攻めて来たら、如何いかがなさいますか、面倒な事になるかも知れません、それならいっそ、聞き入れてやった方が」
と、山門に刃向かう、ばからしさを説いたので、法皇も気が変り、
「全く、山門が相手では、どうしようもない」と言って許したのである。
山門の威力に就いては、こんな話もある。
それは、嘉保かほう二年の事であるが、美濃守みののかみ義綱よしつなという男が、叡山の僧であった円応を殺した事件があった。
早速、叡山側から、日吉ひえの社司、延暦寺の寺官等、三十余人が、訴状を持って、当時の関白、藤原師通もろみちの許へ脅迫にやって来た。
関白は、権少輔頼春ごんのしょうしょうよりはるという侍に命じて、武力で追っ払えと命令を下した。
突然の武力の応酬に、殺される者、傷を負う者が続出、山門の使いは、ほうほうの態で逃げ帰った。
これを聞いた、山門の幹部達が事の子細を、朝廷に直訴にやって来ると聞いた関白は、再び、武士、検非違使けびいしに先手を打たせ、都に入らぬ先に、追い返してしまった。
いよいよ怒った山門の衆徒達は、今は、唯、憎い関白を、祈り殺せとばかり、七社の神輿を、根本中堂こんぽんちゅうどうに振上げて、その前で七日間、大般若経だいはんにゃきょうを読み続けた。最後の日になると、仲胤法印ちゅういんほういんという僧が立ち、おそろしい声で、
「われらの神よ、何卒、御二条ごにじょうの関白に、かぶら矢を当てて下さい。何卒お願い申します、八王子権現はちおうじごんげんの神よ」
といって願った。
その晩不思議な夢を見た人があって、八王子権現の社から、かぶら矢の放たれる音がしたと見る間に、京の御所を指して飛んで行ったと言うのである。
ところがもっと不思議な事には、翌朝、関白の家の格子をあけると、今、山からとれたばかりとしか思えないしきみが、一枝置かれていた。
従来、不吉な木である樒が関白の家の前にあったことは、たちまち、京都中の評判になったが、その噂も広まらぬ先に関白は重い病にかかり、明日あすをも知れぬ身となってしまった。
今更、山王のたたりの恐ろしさをまのあたりに見て、関白の母である摂政藤原師実もろざねの妻は、いても立ってもいられない気持である。
ある日、こっそり身をやつして日吉の社に籠って、七日七晩、祈り続けた。願がかなえられた暁には、芝田楽しばでんがくを百回、百番のひとつもの(祭礼の行列で、一様の装束をしたもの)競馬くらべうま流鏑馬やぶさめ相撲すもうをそれぞれ百、仁王講にんおうこうを百座設け、薬師講やくしこうを百座、親指と中指の長さの薬師百体、等身大のもの百体、並びに釈迦しゃか阿弥陀あみだの像をそれぞれ造立ぞうりゅう寄進するという条件であった。その意上、心中には、なおひそかに、願立てたことがあったが、それは、内深くひめて表には出さないでいた。
2023/10/28
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