~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
がん だて (二)  ♪
満願の夜、八王子の社の参詣人の一人で、奥州の方から上京して来た少年が、突然、気を失って倒れた。人々がいろいろ手を尽くして介抱すると、まもなく息を吹き返したが、今度は、よろよろと起き上がると、人々の呆然ぼうぜんとした顔を尻目しりめに、舞を舞い始めた。
舞うこと半時間ばかりすると、山王の神がのり移ったのか、少年は、不思議なご宣旨を述べるのであった。
皆様方よ、確かにお聞き下さい。関白殿の母上様は、今日で七日、この社にお籠りになった。それは知っての通り関白の命乞いに来たので、この際母上には、三つばかり、願立てをされたのです。
それは、一つは、この社の下段にこもっている片輪に混じって、一千日の間、山王に仕えようというお心なのです。殿下の母であり、摂政の妻ともある高貴の人が、こういう思い切った気持になる程、母の憂いは強いものなのでしょう、それにしても又何とあわれな事でございましょう、 二つ目には大宮おおみや橋のたもとから八王子のお社まで、廻廊を作って寄進すると申されているのです。三千人の大衆が、参詣の時、雨降りや、日照りに悩まされる事もなくなって、どんなに助かる事でしょう。三つ目には、殿下のお命が長らえた時にはspan>法華経ほっけきょうの購読を毎日、一日の休みもなく行わせましょうというものです。この三つどれても中々大ていな事ではありませんが、先の二つはともかく、法華講だけは是非やって貰いたいものです。とは言え、今度の訴訟は、お取り上げ下さればわけない事だったのを、中々お許しにならなくて、そのため、神官や、宮仕えの者が殺され傷を負って、泣くなく山王に訴え出た様子をみると、どうにも、気の毒で忘れられないのです。その上、、彼らが受けた傷は、実は、和光垂跡わこうすいじゃく(神仏が姿を変えてこの世に現れでること)のお肌に当たったので、そのしるしにこれをこれごらん下さい」
肩を脱いだところをみると、左のわきの下に、大きなかわらけほどの傷口があるのだった。巫女みこは言葉を継いで、
「というわけで、母上の願はもつともなことなのですが、もし法華講をきっとやってくれるといおうならば、三年だけは、命を助けてあげましょう、しかしそれ以上のことは、私としても力及ばぬことです」
そこまで言うと、山王のご託宣は終わった。関白の母は、もちろん、心中ひそかに、願立てたことで、人にもらした覚えもなかったから、疑うことなくご託宣を受け入れた。
「たとえ一日でも、命を伸ばして下さったら有難い事でございますのに、三年とは、何と嬉しい有難い話でございます」
と感激の涙を流して都へ帰って行った。早速、関白領であった、紀伊国きいのくに田中庄たなかのしょうを、八王子に寄付された。今日まで、法華経が八王子の社で絶えないのは、そのためとも言われている。
関白師通は、間もなく病気が回復した。が、三年という限られた月日は、またたく間に過ぎ、永長えいちょう二年六月二十七日、髪の生え際にできた、できもののために、三十八歳という若さで、惜しまれつつこの世を去った。
山門に刃向かう事の恐ろしさをさまざまと見せつけられた事件であった。
2023/10/29
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