~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
輿こし ぶり  ♪
加賀守師高、目代師経の断罪を度々叫び続けていたのにも拘らず、一向に沙汰のないのにしびれを切らした山門の僧兵達は、再び実力で、事を処理する決心を固めた。
折柄行われる予定の日吉ひえの祭礼をとりやめると、安元あんげん三年四月、御輿を陣頭に京へくり出して来た。
賀茂の河原から、法成寺ほうじょうじの一角に兵をくり出し、御所を東北から囲む体形で迫って来た。
京の街々辻々には、坊主、神官、その他、各寺、神社に仕える者達がはしくれに至るまで、都大路をぎっしり埋めていた。
御輿は、折柄の朝日を受けて、輝くばかりのきらびやかさで、人目を奪うばかりである。事に驚いた朝廷側からは、早速、源平両家の大将軍に、出陣の命令を送った。
平家方からは、左大将重盛が三千余騎で、陽明ようめい待賢たいけん郁芳ゆうほうの三門を固め、宗盛、知盛とももり以下の諸将は、西南の守備に就いた。一方、北門は、大内だいだい守護の職にあった源三位げんざんみ頼政よりまさが、僅か三百余騎の手兵を持って守っていたが、何分、広さは広し、人数が少ないので、自然まばらな配置になるのも無理もないことであった。
この北門守備の手薄に目をつけた僧兵は、ここから、神輿を入れようと、攻勢を開始した。ところが、頼政は智力勇気共に備わった一筋縄ではいかぬ男であったから、この形勢をみるとにわかに馬から下り、かぶとを脱ぎ、手を洗い清めると、うやうやしい態度で、神輿に拝礼した。総大将のする様子を見て、三百騎の家来どもの、それぞれ、礼をつくして神輿を拝んだ。僧兵は、予想もしなかったこの光景に、しばし呆然ぼうぜんと立ちすくんでいると、頼政の軍から、一きわはなやかに鎧をつけた男が、進み出て来て、神輿の前にひざまず くと主人からの口上を、力強い声で述べた。
「暫く、三門の方々お聞き下されい、主人頼政が、皆様方に申し上げたいことを言いつかって参った者でございます。この度の三門の方々のお訴えは、まことに、理由のあるもつともな事なのを、今の今までお取り上げにならない、お上の態度には、私自身も、そして世間もともどもに、残念に思っていたのですが、不幸にもこういう事態になり、神輿をお通ししたいのは山々でございますが、何分頼政の兵は少なく、この頼政が明けて通したよあっては、後、三門の方々がどんな風に言われるかもわかりません。又私といたしましても、易々やすやすと門を明けることは、勅命にもそむく事であり、と言って、年来、信仰して居ります山王様に弓矢をひいたとあったは、どのような罰を蒙ります事やら、弓矢の道も捨てねばならぬ次第ともなり、いずれにしても、この苦しい胸の内をどういたそうかと迷っているのです。ただ東の陣は、小松殿が多勢の軍勢で固めておられますので、そちらからお入り下されば、全てが救われるのではないかと思うのですが」
使者の言葉に、僧兵一同、暫くためらっていた。若い者の中には、
「何も遠慮することはない、さっさと入ってしまおう」
と言う者も多かったが、中に、雄弁家として知られた老僧、豪運ごううんが、
「頼政殿のいうところ、まことに尤もである。我々としても、神輿を陣頭に、訴えにやって来たのだから、多勢の中を打ち破ってこそ、始めて、後々まで評判が残ろうというものだ。頼政殿は、清和せいわ源氏の嫡流ちゃくりゅうで、武芸はもとより、文武両道に優れた得難いお人、かつて近衛院の頃、お歌会で、深山みやまの花という即題に、
   深山木の そのこずえとも みえざりし
     桜は花に あらわれにけり
と即座に、お答申し上げた程の風流のたしなみも一方ならぬお人じゃ。これほどの人物に、いかに時が時だといっても、恥を与えて、神輿を通すことが出来ようか、さあ皆の者、もうい一度、神輿をかついで他に廻ることにいたそう」
豪運の名調子には数千人の僧兵の内、誰一人意義をはさむ者もなかった。神輿をかついで今度は、重盛の固める待賢門に向って行軍を始めたのである。
待賢門から神輿を乗り入れようとすると、ここでは、待ってましたとばかり、平家の兵達が一斉に弓を射たので、神輿にも、何本か矢が当たり、僧兵達は、射殺される者、傷を負いう者が続出した。さながら、阿鼻叫喚あびきょうかんのちまたで、この圧倒的に優勢な兵力の前には、さしもの僧兵も、神輿を振り捨てると、一目散に、比叡の山へ帰っていた。
2023/10/30
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