~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
だい えん じょう  ♪
僧兵の引き揚げた後、取り残された神輿について、俄かに、公卿会議が開かれた。
とにかく、いささか、不気味なお土産みやげだけに、いくだの論議が繰り返されたが、結局、保延ほうえん四年神輿入洛じゅらくの例にならって、祇園の神社に奉置することに話が決まり、夕刻を選んで、祇園別当、澄憲ちょうけんの手で、祇園の社に入った。 神輿に突き刺さった矢は神官が抜いた。
昔から、三門の僧兵を先頭に、都に押しかけたことは、何度かあったが、今度のように、神輿に矢が当たったのは始めてのことであった。それだけに、一般の庶民はもちろん、殿上人の中にも山王の祟りを恐れて、戦々恐々せんせんきょうきょうんとする者が多かった。
その日が明けて十四日の夜。今度は又々、山門の僧兵が、大挙して、都に攻め寄せるという風説が広まった。
これに怖れをなした朝廷方は、先ず、主上が、御輿に乗って、法住寺殿ほうじゅうじどの(院のお住居)へ、続いて、中宮は牛車に乗って跡を追い、それぞれ身分の高い宮々、公卿、殿上人もあちこちに避難することになった。
重盛は、直衣なおしに弓矢を負い、維盛は束帯にこれも弓矢をつけ、ものものしいいで立ちでつき従った。
この急の御所の移転騒ぎには、京都の町中の者も驚きあわてて、家財道具を持って逃げ出す者まで出て来る始末であった。
一方叡山では、早速、今度の手痛い打撃に就いて、報復するための会議が開かれた。
これほどの恥を蒙った上はもう遠慮もへちまもない。叡山の大宮おおみや以下、諸堂全てを焼払って。全山、叡山を立ち退こうという強硬論が、勝ちを占め、評議一決した時、法皇の使者に立てられた、当時、左衛門督さえもんのかみ平時忠が、風雲渦巻く叡山に、数人の供を連れただけで乗り込んで来た。
「時忠来たる」の報に興奮した僧の中には、
「冠なんかうちゅおとして、ふんじばって、湖に沈めてしまえ」
などと言う者も現れ、今にも、時忠に飛びかからんとする気配であった。
時忠は、しかし、少しも騒がず、落着いた物腰で、言い放った。
「方々、暫くお静まりを、一言申し上げたい事があります」
と懐中から、懐紙とすずりを取り出し、さらさらと何事か書き終わると、山門の僧兵達に渡した。
取り上げてそれを見ると、
「貴僧らが乱暴狼藉ろうぜきを働くのは、これ全て、魔性ましょうのしわざであり、主上がこれに対しておとめだてなさるのは、あくまで不動明王ふどうみょうおうの加護に依って、仏の道に導き参らせたいという有難いご趣旨から出たことである」
と書かれいた。
坊主達は、この道理の正しさには、返す言葉もなく、
「尤もな事じゃ」と口々にいいながら、散っていったしまった。
とにかく、怒れる僧兵三千を相手にたった一枚の紙で、これを押さえてしまった時忠の偉さは、一躍評判になった。と同時に、普段は、うるさい事を言い立てて、乱暴を働く坊主も、道理はわきまえていたのだと、これも又評判がよかった。
二十日には、師高、師経の裁判が、花山院中納言の手で開かれた。師高は尾張に流罪るざい、師経は禁獄に処せられ、更に、神輿に矢を射た重盛の家来六人も獄につながれた。
これで僧兵の要求通り、事件は落着したかにみえたが、実にそのあとに、尤も恐るべき事件が発生したのである。
四月二十八日の夜、樋口富小路ひぐちとみのこうじから火が出た。折からの東南の風にあふられて、大車輪のような炎が、三町、五町は難なく飛び越えて西北の方角へ、はすかいにはすかいにとんでいく。しの恐ろしさは、とても恐ろしいなどと言えるものではなかった。
神社、仏閣、貴族の邸宅をみるみるうちになめ尽くし、京の街々を、はいずり廻った火は、その勢いで御所に向い、朱雀門に先ず飛び火し、またたく間に、全内裏だいり中を焼き尽くしてしまった。家々に重代伝わる家宝のたぐいは勿論、日記も、書類も、持出す暇はなく、全て灰燼かいじんに帰した。
この大火事は、人々の胸に、あの神輿の一件を新たに思い出させるのに十分だった。
ある人などは、手に手に松明たいまつを持った大猿、二、三千匹が、叡山から下りて焼打ちしたのだとまことしやかな噂をする人もいたくらいである。
2023/10/31
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