~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
なが し (一)  ♪
治承元年五月五日、叡山の座主、明雲めいうん大僧正は、宮中の出入りを差し止められた。
同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預かっていた、如意輪観音にょいりんかんのんの本尊も取り上げられた。
更に検非違使庁けびいしちょうを通じて、神輿を振上げて、都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令も来ていた。
こうした、矢つぎ早の朝廷の強硬策は、先の京の大火事に原因と理由があったろうが、もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光さいこう法師が、あることないこと、山門の不利になることばかりを、後白河法皇に告げ口したためであった。そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害されているようだった。
唯ならぬ事態の変化を読み取って明雲は、早やばやと、天台座主てんだいざすを辞任してしまった。
変って、鳥羽天皇第七皇子、覚快かくかい法親王が、天台座主となった。
その同じ日に明雲は、前座主の職を取り上げられた上に、監視までつけられ、水さえもろくろく飲まされず、まるで罪人扱いであった。
十八日には、この明雲の処遇問題に就いての会議が開かれた。
誰もが、法皇の前をはばかって、これとう意見を出す者がなかったが、一人、左大弁宰相さだいべんのさいしょうの藤原長方ながかたがひざをのり出し、
「法律家の意見に依れば、死罪を一等減じて、流罪ということになっている様でございますが、とにかく、前座主、明雲大僧正は、他の者とは事変り、その学問の深さ、天台、真言両宗を会得した当代稀なる名僧で、行いは清浄、戒律を破った事のない徳高い人です。その上、我々にとっては、お経の師でもあり、高倉帝には法華経を授けられた師でもあります。これ程の人を流罪にする事は、決して穏便な事ではございません。何卒、もう一度お考え直しになった方が良いのではありますまいか」
と、苦々にがにがし気な顔を一層強張らせている法皇の前で、恐るる色もなく延べたてた。
一座の者も誰一人反対する者はなく、我も我もと賛成したのふぁが、しかし、法皇のおいきどおりは、寵臣からきつけられているだけに根深いものがあり、誰一人法皇の心を柔らげる事が出来なかった。
清盛も、何とか、法皇の気持をとりなそうと参内したけれど、風邪かぜ気だからと体のいい玄関払いう始末で、この一件だけは、徹頭徹尾、法皇の無理が通ってしまった。
ここに前代未聞の座主の流罪が決まったのである。明雲大僧正は、僧籍を取り上げられ、俗人の扱いを受け、大納言大夫藤井松枝ふじいのまつえだという俗名をつけられ、伊豆国いずのくにへ流されることになった。
この明雲大僧正は、久我大納言こがのだいなごん顕通あきみちの子で、仁安にんあん元年座主となり、当時天下第一と言われる程の知識と高徳を備えた人で、上からも下からも、尊敬されていた人だったが、ある時、陰陽師おんようし阿倍泰親あべのやすちかが、
「これ程、知識のある人にしては不思議だが、明雲の名は、上に日月、下に雲と、行末の思いやられるお名前だ」
と言ったことがあったが、今になってみると、その言葉もある程度うなずけるものがある。
二十一日は座主の京都追放の日であった。執行役人に追い立てられながら、座主は泣く泣く京をあとにして、一先ず、一切経国にある草庵に入った。
二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。
さすがに日頃住み馴れた京都を離れ、恐らくは二度と、帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、様々の想念が渦巻いていた。
一行は、夜あけがた京都を立ち、やがて、もう大津の打出の浜にまで来た。そこからは、比叡の山の青葉若葉のえたつような色どりの中に文殊楼もんじゅろう軒端のきばが白々と見える。
朝夕慣れ親しんできた、その姿を見ると、座主の目は忽ち涙でかき曇ってしまい、それからは二度と顔をあげて振り返ろうとしなかった。澄憲法印は、余りにも痛わしい座主の嘆きを見かねて、粟津あわずまで送って来た。
しかしどこまでも送って行くわけにもいかないので、そこで別れを告げることにした。
澄憲の気持に感激した座主は、年来、心中にあった一心三観の教義 ── これは釈迦相伝の大事なもの ── を伝授された。もちろん澄憲はこれを大切に心中におさめて帰京したのである。
2023/10/31
Next