~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
なが し (二)  ♪
山門ではこの度の沙汰は不満どころか、全山、憤慨の極にあった。それも西光法師 父子の告げ口のせいだとばかり、西光法師親子の命をとり給えと呪い続けていた。
いよいよ座主が伊豆送りされた二十三日、山門では、大会議が開かれていた。
「初代義真ぎしんより今日まで五十五代、座主が流罪にななどという不法は行われなかった。いかにこの様な乱世末世の時代とはいえ、栄えある当山をないがしろにするやり方だ。即座主をうばい返そう」
勢いの良いこれらの言葉はまるで、はやてのように全山に拡がり、われもわれもと、わめき声をあげて、東坂本に「かけ下りて来たのである。ここで再び会議が開かれた。
「とにかくここにいる誰もが、粟津に行って、座主を取り戻したいと思っているのは確かだが、役人がついている以上、果たして無事に取り返せるかどうかが心配だ。それには先ず、山王権現のお力を借りる以外に手がない。もし我々を助けて、無事座主を取り返せるものなら、先ずここでそのしるしを見せて頂こう」
という提案で、老僧達は一心不乱に祈り始めた。すると、山門に使われている鶴丸つるまるという少年が、急に体中から汗を吹き出して苦しみ始めた。
「私に十禅師権現じゅうぜんじごんげんが乗り移ったのです。どんなことがあっても当山の座主を他国へ追いやることは許しません。そんな事になっては、私がこのふもとに神として祭られていても、何の意味もない事です」
左右の袖を顔にあてはらはらと涙を流す。この不思議さに、
「お前が本当に、十禅師権現だというのなら、私共が証拠の品を渡すから、元の持ち主に返してみるがいい」
と老僧四、五百人の手にした数珠じゅずを、床の上に投げあげた。少年は走り廻って拾い集めると、一つの間違いもなく持ち主に返した。ここに、全山の衆徒は勇気百倍し、座主を取り返す決意を新たにしたのである。
「これ程の神のご加護があるならば、恐るることはない。命をかけても、座主を連れ戻そう」
海からも山からも、座主の跡を追いかけてくる、雲霞うんかの如き宗徒の群にきもをつぶした護送役人は、座主をうっちゃて、命からがら逃げ出してしまった。
驚いたのは、明雲大僧正である。元々、道理一点ばりの人だからここに及んでも、喜ぶより先に、この事件の行末を気にかけていた。
「私は、法皇の勅勘を受けて流される罪人なのですから、少しも早く、都の内を追い出されて、先を急がねばならぬ身です。お志は有難いが、貴方あなた方に迷惑はかけたくない、早くお引き取り下さい」
と言う。しかし、このくらいで引き下がる衆徒ではない。何が何でも山に戻って貰わねば、山の名誉にかかわるとばかり、座主の決意を促した。

「家を出て山門に入ってからというもの、専ら、国家の平和を祈り、衆徒の皆さんをも大切にしてきたつもりですし、我が身にあやまちがあろうとは思われず、この度の事でも、私は、、人をも神仏をも誰一人お恨み申してはおりません。それにしても、ここまで追いかけて来て下さった衆徒の皆さんの志を思うと、何とお礼を申し上げてよいものやら」
後は唯涙をぬぐうばかりで、荒くれ男の多い衆徒達も、一様に涙を誘われた。
「とにかくこれにお乗りください」
衆徒の一人がせきたてると、
「いや昔は三千の衆徒の上に立つ主でも今は罪人の私、輿こしなどはもったいない。たとえのぼるにしてもわらしばきで、貴方方と一緒に」
と言って輿に乗ろうともしない。
すると先程からこの様子に見かねたのか、西塔さいとう阿闍梨あじゃりで、祐慶ゆうけいという、名うての荒法師が、白柄の大長刀おおなぎなたを杖について、七尺の長身を波うたせながら、人の列をかきわけて前に出て来ると、
座主に向って、
「そう理屈ばかり仰有おっしゃるから、今度のような事にもおいなるのですよ。ともかく、さっさと乗って下さいよ」
とせかせたので、座主も、今はと諦めて、御輿に乗った。
無事に座主を取り戻した嬉しさに、衆徒一同は喜び勇んで、けわしい山道も難なく越えて、叡山へ帰ったのある。
叡山に戻った明雲前座主を一先ず、大講堂の庭に置くと、再び会議が開かれた。
「勅勘を蒙って流罪と決まった前座主を取り戻したはいいが、果たして再び座主として我らの頭上に頂くべきであろうか? 一体如何いかがいたしたものであろうか?」
これを聞いて先の祐慶は、再び前に進み出ると、かつと見開いた両眼から、はらはらと涙をこぼしながら、
「皆の方々、よく承れ、この叡山はそもそも日本に二つとない霊地であり、鎮護国家の道場である。当山の衆徒の意見は、世間からも尊重され、決してあなどられたためしはない。まして、高貴高徳の人である三千の衆徒の主が、無実の罪を受けた事は、当山はもちろん、世の人々が、憤ってやまない事なのじゃ。この罪なき人を、何で主と崇めて悪いことがあろうか、もし、又これがため、朝廷よりおとがめがある時は、この祐慶喜んで罪に服すつもりでいるのじゃ」
全山にとどろくばかりの大音声だいおんじょうは、山々の峰にこだまして、なみいる大衆の心をゆさぶった。
前座主は、東塔の南谷みなみだに、妙光坊に入られる事になった。これ程有徳の人物でも、たまには災難にあわれることもあるのである。
2023/11/01
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