~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
小 松 教 訓 (一)  ♪
清盛邸の一間に押し込められたままの新大納言成親は、次第に冷静になるにつれて、陰謀露顕の理由をあれこれと考えていた。それにしても、用意周到とは思い続けておったが、どこかに疎漏なな点があったのであろう? 北面の武士の内の誰かなども、今にして思えば、少しうかつであったか?」
いろいろに思い廻らしている時、後の方から、荒々しい足音がして、障子を手荒く引きあけたのは、満身怒りにおののいている清盛その人である。
「そもそも、其許そこもとは、平治の乱で、殺されるばかりのところを、重盛が命乞いして助かったお人、それを、どんな恨みがあってのことか、当家滅亡の陰謀に荷担せられ、それでも人間か? 人間は恩を知ればこそ人間、受けた恩を仇で返すはさてもさても畜生同然、さあ有りのまま、逐一隠さず、この清盛に聞かせられたい」
言葉は丁寧だが、怒気は言外に溢れ、成親は恐しさに身も縮むばかりであった。
「全く以て、左様な恐ろしいことに組した覚えはございません。誰か私に恨みを持つ者の讒言ざんげんでは」
「お黙りなさい、このに及んでも、まだ白ばっくれると仰有るなら、これ、誰か、西光の自白」調書を、これへ」
持って来られた西光の白状書きを、声高らかに読み上げた清盛は、
「これでもまだ、知らぬと言わるるか、これでもまだ弁解の余地があると言うのだな」
と憎々し気に成親を睨みつけ、書類を顔に叩きつけると、障子をがたっと閉めて出て行ってしまった。
しかしそれでも、清盛はまだ腹の虫が治まらなかったらし。難波経遠なんばのつねとう瀬尾兼康せおのかねやすを召し寄せると、
「きゃつを庭へ引きずり下ろせ」
と言いつけた。
二人は一瞬顔を見合わせて、互いの腹の内を確かめ合った。
「何をぐずぐずいたしておるのじゃ」
清盛は焦々いらいら している。
「さようにございますが、成親卿は小松殿のご親族、小松殿の思惑も如何いかがかと」
恐るおそる切り出すと、案の定清盛は、かんかんになった。
「この馬鹿者、お前らは、重盛が大事で、この清盛の命令は二の次だと言うのだな。それならそれで清盛にも考えがあるぞ」
大きな眼をぎょろりと動かした。二人はこの上の反抗はかってよくないと思い直して、仕方なく成親を庭へ引きずり出した。
その様子を見て清盛は、漸く少し愉快そうな顔つきになった。
「それ、声を出すまで、ねじ伏せろ」
二人は、左右から清盛に気づかれぬ様に成親の腕をとると、
「何でもいいから声をお出しなさいませ」
と囁いた。
成親は、いかにも苦しそうに、いめき声を出した。その様子を見ていると、本当に切なさそうで、全く、地獄で、娑婆しゃばの罪人をごうはかりにかけ、浄玻璃じょうはりの鏡にひきむけて、閻魔えんま大王の家来達が、折檻せっかんしているようにしか見えなかった。
成親は、庭先に頭をすりつけられながらも、息子、丹波少将成経たんばのしょうしょうなりつねを始め幼い子供達が、この後、どんな苦しみにあうにかと、そればかりが心配であった。
丁度六月のさ中で、気候も暑い上に今、炎天下に引き出され、汗と涙にまみれながら、成親は、
「小松殿だけは何とか、よいように取り計らって下さるであろう」
とそればかりに、はかない望みをかけているのであった。
その小松内大臣重盛は、事件が一先ず落着いた頃になって、嫡子維盛と同道で、僅か七、八人の供を連れたまま、何事もなかったように悠々とやって来た。
清盛を始め、一同が、意外な面持ちで見守っている中を、ゆっくりと重盛は車から降り立った。貞能さだよしがつと走り出て、
「お家のおん大事というのに、又一人の軍兵もお連れにならぬとは、何とした事で」
と問いかけると、重盛は静かな口調で、
「大事とは、天下の大事を申すものじゃ、かような私ごとを、大事とは言わぬものじゃ」
と言い捨てて奥へ入って行った。
今の今まで、ものもにしく武装して緊張していた者達は、何となく、きまりの悪い思いがしたのである。
屋敷内に入ると、重盛は、早速成親を探して歩いた。あちらこちら、障子を引きあけ引きあけしているうちに、とある一間に厳重に木材を打ちつけた所があった。押し入ってみると、成親が、うい伏せになったまま、泣いていたらしい。
途端に、ぱっと面を輝かして、重盛にすがりついた。地獄に仏とはmさsにこのことであろう。
「どうしたわけか、かように情けない目にあっております。貴方のお出でを今か今かとお待ちしていたのです。かつて平治の乱には、あわやというところをお助け頂き、その上今日は正二位大納言にして頂きました。歳すでに四十を超え、生きている間にご恩をお返し出来るかどうかさえわかりませんが、何卒、今一度、この命をお助け下されませぬか。命さえ助かれば出家遁世とんせいの上一生菩提ぼだいを弔って暮らします。どうぞお願いいたします」
「もちろんですとも、まさか、お命を取り上げるような事はないでしょう。万一そのような事があったとしたら、この重盛が、わが身にかえても助命を歎願するつもりでいますし、何卒、そんなにお歎きにならないで、気を強くお持ちください」
優しく慰めて、早速、清盛のところに行った。
2023/11/04
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