~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
少 将 こい うけ (一)  ♪
丹波少将成経なりつねは、その夜、院の御所の宿直で、まだ家には帰っていなかった。
そこへ、大納言の家来が、急を知らせに駈けつけて来た。始めて、事の仔細を知った少将の驚きも深かった。
それにしても、宰相さいしょう殿から、何とも言って来ないのは変だ、と思っていた矢先、宰相からの使いの者が飛んで来た。宰相とは、清盛の弟教盛のりもりのことであるが、教盛の娘が成経の妻になっていたから、成経にはしゅうとであった。
「何事か存じませぬが、清盛公から、西八条へ出頭するようにというお達しが参っておりますが」
宰相の使いの言葉を聞くより早く、少将は、その意味を察して、法皇の側仕えの女房を呼び出すと、事の次第を物語った。
「昨晩は、何となく往来のあたりが騒然としておりまして、私なども、また、山法師が、陳情にでも参ったものかとばかり、うかつに考えておりましたが、何と、この成経の身に関わりのあることだったのでございます。聞けば、父、大納言は、今夜斬られるとかのこと、私とても、同じ事であろうと思います。もう一度、院の御前に伺候しこうし、お別れをしたいと思いますが、おとがめを受けた身となっては、却ってご迷惑がかかってはと思うのでございますが」
年にも似ず、落着いた態度であったが、女房はびっくりして、法皇にこの事をご注進申し上げた。
法皇も、今朝の清盛の使いで事件の起きた事は知っていたが、さすがに側近く仕える者の身にも及んだのかと改めて驚かされた様子だった。
「やっぱりそうだったのか、とうとう、洩れていまったのだな。それはそれとして、少将に遠慮せずに参れと伝えよ」
院のお言葉に従って、少将が、御前に進み出たが、涙が先に立って、言葉も出ない。法皇とて、思いは同じである。顔を見交わしては、袖を顔にあて泣くばかりである。しかし、そうそう長居も出来ないから、少将は法皇の前を引き下がって来た。法皇は、少将の去り行く姿を身ながら、
「世も末というが、まことにそうじゃのう。これ限りで、再び少将にも逢えないのであろうな」
とまた涙をお流しになった。
院中の人々も、少将の袖をとらえて離さず、たもとにすがって、いつまでもいつまでも別れを惜しんでは、又ひとしきり涙を流すのであった。
舅の教盛の許には、北の方がお産のため、実家に帰っていたが、この知らせを聞いてから唯ならぬ身体が一層衰弱して、床に就いていた。
少将は、御所を出てから、ずっと涙を流しっ放しであったが、この北の方の哀れな様子を見ては、いよいよ嘆きはつのる一方である。
少将の乳母うば六条ろくじょうという女が、
「貴方様が、お生まれなされた時から、お乳をあげ申して以来、我が年の老いゆくことよりも、ご成人が嬉しくそればかりが楽しみに、いつか二十一年にもなってしまいました。院へお務めになるようになっても、お帰りが遅いのさえ心配で、お顔を見るまでは安心も出来ませんでしたのに、今はまた、どんな目においになるのでしょうか?」
と、よよとばかり泣き崩れる。
少将も今更に事の恐ろしさが身にしみるけれど、
「そんなに泣くでない。宰相がおいでになるからには、命だけは、何とかけて下さると思うよ」
と慰め顔に言ったが、六条は、耳もかさないで泣き崩れるばかりなのだった。
そうこうするうち、清盛からは、しきりに、少将を同道せよというさいそくが来る。
宰相も、今は仕方なく、
「ともかく、行だけは行ってみよう、その上で、又、どうにかなるであろう」
と少将と相乗りで、西八条にやって来た。
邸近くで車を止め、取次を頼むと、
「丹波少将は、此の邸内には入れてはいかん」
という清盛の言いつけであった。仕方なく少将は、近くの侍の家に一先ず置いて、宰相が一人、門の内に入った。
宰相の姿が見えなくなると直ぐ、少将の囲りを軍兵が取り囲んだ。
宰相とも別れ、全く一人ぼっちになった少将の心細さは、何ともいえないものだった。
2023/11/07
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