~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
少 将 こい うけ (二)  ♪
中門に入った宰相に、清盛は目通りを許さなかった。仕方なく宰相はげん大夫判官李貞すえさだを通じて、言葉を伝えて貰う事にした。
「つまらない人間と関り合いになったことは、返すがえすも残念ですが、これもいたし方ありません。成経に縁づいた娘が、身重の体で、実は今朝から、この嘆きのため、息も絶えだえなのです。如何いかがでございましょうか、少将一人生きていても如何どうなるものでもありません、暫くこの教盛にお預け下さらぬか、決して間違いなどは起さぬように厳重に監視いたします」
これを聞いて清盛は、
「又教盛のあれが始まったな、全くわけの判らんことばかりを申して」
とろくすっぽ返事もしなかったが、暫くして、
「新大納言成親は、平家一門を滅ぼして天下を乱そうとしたのじゃ、少将は、この成親の正真正銘の嫡子じゃ、宰相が彼と親しかろうが、親しくなかろうが、そんな事は知った事ではないが、それ程の重罪人をかばおうと思っても無駄じゃ。第一この反乱がもし成功していたら、今頃、宰相だってそうやって、のこのこと歩き廻ってなどおられなかった筈じゃからなあ」
清盛の言葉を宰相に伝えると、ひどく失望した様子で、もう一度伝言を頼んだ。
「保元、平治の合戦以来、いつも殿のお命に代わる覚悟で働いてきました私、この後も、一度事が起こらば、必ずご馬前にはせ参ずる覚悟で、又私が年老いて役に立たなくなっても、子供達が何人かおりますから、必ずや、一方の御楯みたてとなって、手となり足となるつもりでいますのに、成経を一時お預け下さることさえ、お聞き入れないとは、どうやら、この教盛に二心あるとでもお思いとしか受取れません。それ程、ご信用がないのでしたら、この世にあって、何の生き甲斐がございますことやら、それならば、出家入道し、どこかの山里に庵を結んで、静かに菩提ぼだいを弔います。世にあれば、望みもでき、望みもかなわなければ、恨みも起こるものですから、仏の道に入ってしまえば、そんな気持も起こらないでしょうから」
李貞は清盛に宰相の言葉を伝え、
「どうやら宰相は、本当に諦めてしまったらしいようで、どうにでもお気持ちの済むようにといっていられまう」
と言い添えた。
清盛もさすがに驚いて、
「いくらなんでも、出家までせずともよいわ。仕方がない、少将を暫くの間、教盛に預けると申しておけ」
と漸く折れた。
清盛の許しを聞いて、肩の重荷を下ろした教盛はしみじみ、
「全く子供など持つものではござらぬのう、娘婿むすめむこだからこそ、これ程まで心を砕くので、全く赤の他人には出来ぬことじゃのう」
と述懐した。
教盛の姿を見た少将は、走り寄ってたずねた。
「ご首尾は?」
「清盛公、かつてないお腹立ちで、お目通りも許されず、助命嘆願も受付ては下さらなかったのを、わしが出家入道するとまで申したもので、仕方なく、一時、私の家にいる事は許して下さった。しかし、これも長続きするかどうかはわからぬのう」
と暗然たる面持ちであった。
「いや、それはそれで、一時のせよ、おかげを持ちまして、命は伸びたのでございますが、父の方の事は如何なったか、お聞きにはなりませんでしたか?」
「そこまでは、とても手が廻らなかったのじゃよ」
少将は、さめざめと涙を流し、、
「命を長らえさせて頂いたご恩は、何とも有難いのですけれど、命の惜しいのも、もう一度、生きて父に逢いたかったからのことで、父が斬られては、私一人生きて何になりましょう。それよりも、生きるも死ぬも、一緒にお考え下さるように申し上げて下さいませぬか」
「さよう、のう、そなたのことばかり考えていたから、つい父上の事にまで思い至らなかったが、聞くところに依れば小松殿が今朝、いろいろ手を尽くして助命をお願いしていたらしいから、ここ暫くはお命に別条ありますまい」
「それは、又何と有難い事で」
少将は、今度は、嬉しさに泣くなく手を合わせた。この窮境におち入っても、尚、親の身の上に思いをはせる心は、やはり誠の 父子なれで、教盛も、もらい泣きしながら、やはり持つべき者はわが子だと、つくづく思ったのである。
教盛と打ち連れて帰って来た少将を見ると、女達は、生き返った人を迎える程の喜び方で、またまた話を聞いては嬉し泣きをつづけた。
2023/11/08
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