~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
ほう   ♪
宿所に帰った重盛は、主馬判官盛国を呼び出すと、
「唯今、重盛が、天下の大事を聞き出して参った。常日頃、重盛のために命を惜しまぬ者があれば、急ぎ集めるように」
と言った。この知らせがたちまち広がったから、日頃、物事に動じぬ人のお召しというので、まさに天下の一大事とばかりに、誰も彼も、おっとり刀で小松殿へ集まって来た。
小松殿で何事かが起こるという知らせは、西八条にも届いていた。西八条につめていた数千騎は、誰いうとなく、一人残らず、小松殿に飛んで行ってしまい、清盛邸はひっそり閑としてしまった。驚いたのは、清盛である。貞能を呼ぶと、
「一体、重盛は、何のつもりでこれらの兵を狩り集めたのだろう。まさか、わしに申した事を実行して、このわしに弓を引こうというつもりではないだろうな」
といささか心細げに言った。
「とんでもございません、あのお方に限ってそんな馬鹿な真似まねをなさるはずはございません、むしろ、余り言い過ぎたぐらいに思っていらっしゃるくtらいです」
しかし清盛は、先程の闘争心を失って、今は、もうすっかり気が滅入ってしまったし、まして重盛と仲違いすることの不利なことはわかりきっているのだから、法皇を六波羅へ移すことも今はすっかり思い止まっていた。彼は着ていた腹巻を脱ぎ、いつもの法衣を身にまとうと、気のない念仏をくり返していた。
一方、重盛邸に集まった兵はおよそ一万騎という多勢であった。重盛は中門に出て一同に向い、いつに変わらぬおだやかな口調で、
「日頃の約束通り馳せ集まってくれて、まことに有難い、ところで中国にこんな話がある。しゅう幽王ゆうおうに一人の寵姫ちょうきがあった。ところが、彼女は笑ったためしがない。たまたま、天下に乱が起き、兵を集める目的で烽火を挙げた、この国では、乱が起き兵を集める際、太鼓を叩き、所々に火を揚げさせる習いなのじゃ、ところで妃は、烽火を見て、はじめて笑った。それ以来妃の笑顔が見たくなると、幽王は烽火をあげさせた。そのうち余りにそれが重なるので、いつか兵も集まらなくなった、そこへ実際に乱が起き、幽王の身辺が危うくなった。すると幽王は早速、烽火をあげた、誰一人それを真実の烽火と思う者はなく、軍兵はほとんど集まらなかった。それで幽王は亡びたのじゃ、これは中国の故事じゃが、今後、再び、重盛の命があったなら、このようにしてかけ集まって参れ、実は今日は、特に天下の大事を聞き出したので、早速皆の者を招集したのじゃが、よくよく調べてみると、虚報であった。ご苦労であったが、おのおの方引取られい」
これは重盛の案じた一計だったのだ。万一の時、我が身にどれ程の味方がつくかを知り、併せて、父清盛には、この様子を見せて、法皇に対する謀叛心をやめさせようと思ったのであった。
法皇は、あとからの事を聞き、ひどく感動された。
「今に始まったことでないにしても、当代稀なる人格者だ。怨を恩で返された心の高邁こうまいさには頭が下がるのう」
とにかく器量といい、才覚といい、これほどの人物は稀といえるであろう。
2023/11/14
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