~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
の松  ♪
大納言以外に陰謀に荷担した者は、それぞれ遠国流罪を言い渡された。
すなわち、中将入道蓮浄れんじょう佐渡国さどのくに、山城守基兼は伯耆ほうき、式部大輔雅綱ははりま磨、宗判官信房は阿波あわ、新判官資行が美作みまさかといったぐあいである。
その頃、清盛は福原の別荘に居たが、摂津左衛門盛澄せっつのさえもんもりずみに命じて門脇宰相かどわきのさいしょうのところへ、
「至急、丹波たんば少将をこちらへ出頭させるように」
といい送った。
「何と言うことだ、今頃になって、もっと前に言ってくれれば諦めもつくというのに、又々心配させる気なのだろうか」
宰相はさすがに兄のやり方が腹立たしかった。
「いっても無駄とは思いますが、もう一度清盛様にお頼みになっては」
そう言って女房達は、盛んに宰相に頼むのだった。
「いやいや、いうだけのことはいいました。あとは私が出家するよりほかには、いうこともありませんよ。私としては今後少将が、どんな人里離れた辺鄙へんぴな場所に行かれても、命のある限り安否をお尋ね申し、力になってあげるつもりです。今の私にはそれが精一杯です」
平家の一族で、清盛の弟であるこの人がいうのだから、もう致し方なかった。少将は泣く泣く出発の用意に取り掛かった。
は少将には、今年三つの男の子があった。普段は、年若い父親のせいか、子供のことこには至って無関心であったが、さすがに二度と再び逢えるかどうかという時になると、子供の顔が見たいと言い出した。乳母が抱いて連れて来ると、少将は膝の上に抱き上げ、髪をなでなでしながら、
「お父さんはな、お前が七つになったら元服させて、法皇のお側に仕えさせようと思っていたのじゃよ。でももう今は、全ての希望は失われたのじゃ、もし無事に成長したら坊主になって父の後世を弔っておくれ」
少将の言葉をつぶらなひとみをあげて、じっと聞いていた幼児は、何事かわかったのか、こっくりとうなずいた。そのあどけない様子が一層あたりの人の涙を誘うのであった。
そのうち又清盛の使者が来て、今夜中に鳥羽まで来るようにとの厳命であった。
「別にそれ程伸びるわけでもないのに、せめて今夜ぐらい都にいたってよいではないか」
ろ何度もいってみたけれど聞き聞き入れられず、少将はその夜、名残の尽きぬ別れを後に、わが家を出たのである。
福原に着いたのは、六月二十二日である。一応備中国びっちゅうのくにに流罪と決まり、瀬尾太郎兼康が警備の任をおびて行くことになった。
兼康は、とかく、あとあと宰相から恨まれるのがこわいから、かゆいところに手の届くようないたわり方で、少将の心を何とか慰めようとするのであるが、少将の方は一日として楽しまぬのである。
彼の心には、父成親の行方だけが気にかかったいたのである。その成親は、備前びぜんの児島が港に近いという理由で、備前、備中の境、有木ありき別所べっしょという山寺に移された。この有木の別所と、少将の居る備中の瀬尾せおとは、僅か五十町足らずとい目と鼻の先の間であった。
人づてにそのことを聞いた少将は、どうにもなつかしくなって、ある日兼康に、
「父上のいられる有木の別所まで、何里程のところなのじゃ」
とたずねた。本当の事を言ってはかえって辛いだろうと思った兼康は、
「さあ、片道、十二、三日もかかりましょうか?」
と空とぼけて答えた。
少将は、
「日本は昔、三十三ヵ国であったのを、後に六十六ヵ国に分けたのじゃ、備前、備中も元は一つの国であった。東国の出羽でわ陸奥むつもそいの伝で二つに分かれたと聞いている、昔、実方さねかた中将が、奥州へ流され、この国の名所、阿古屋あこやの松を見ようと尋ね歩いたが見つからなかった。
たまたま一人の老人に出逢って、当国の名所阿古屋の松を知っているか、と尋ねると、それは大方、出羽国でしょう、という「返事に、国の名所が忘れられるとは世も末じゃ、といって嘆くと老人は、
「貴方様は、
   陸奥みちのくの 阿古屋の松に かくれて
     いずべき月の 出でもやらぬか
という歌で、当国の名所をお尋ねになるのでしょうが、これは実は、両国が一つであった時詠まれた歌で、今では阿古屋の松は出羽国にござりましょう」と言ったそうだ、
実方中将はその後出羽国で、松をご覧になったという。
ところで貴方は、有木の別所まで、十二、三日かかるというが、筑紫つくし大宰府だざいふから都まで、十五日で来るものを、いくら遠いといっても備前、備中の間が十二、三日もかかるわけがない、せいぜい三日とうところであろう。それをあのように出たらめを教えるのは、所詮しょせん、父の在所を私に教えたくないためなのでしょう?」
少将は二度とこの事を口にしなかった。
2023/11/17
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