~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
山 門 滅 亡  ♪
後日白河法皇は、前々から、三井寺の公顕こうけん僧正を師範として、真言しんごんの秘法を学んでいられたが、大日経だいにちきょう金剛頂経こんごうちょうきょう蘇悉地経そしつちきょうの三部の伝授も済み、九月四日、三井寺で御灌頂ごかんじょうをお受けになることとなった。
これを聞いた山門の大衆はひおく憤慨して騒ぎが大きくなってきた。
「昔から、御灌頂ご受戒は当山で受けると決まっているのに、先例を破って、三井寺でやるのなら、三井寺を焼き払ってしまうぞ」
と言っておどかした。
法皇は、山門を刺激しても無駄だからと、三井寺での御灌頂は一応お取止めになったが、元々そのおつもりであったから、四天王寺へお出でになり、五智光院ごちこういんを建立、亀井かめいの水を五瓶ごびょう智水ちすいとして伝法灌頂でんぽうかんじょうをお遂げになったのである。
この事件はこれでけりがついたわけだが、当時、山門では、学生がくしょうと堂衆が仲が悪く、合戦に及ぶ事も何度かあり、その度に学生が負け、何人かの学生が命を失い、山門の滅亡も時間の問題かと思われてきた。
元来、学生とは山に籠って、止観、真言の両業を治め、学問修行に務める者を指し、堂衆とは、学生付の稚児が法師になったのや、雑役の僧とかであったが、次第に増長し、大衆に立向うようになってきたのである。
これに手を焼いた大衆は、彼らは、院主、師僧の命の背いて勝手に合戦を企て迷惑いたしますので、速やかにご討伐下さい、と朝廷や武家に願い出たのである。
清盛は、堂衆討伐の院宣を受取ると、紀伊国の住人湯浅権守宗重ゆあさごんのかみむねしげ以下畿内の兵二千余人を大衆応援にくり出して、堂衆に立向う事とにった。
堂衆は、近江国三ヶ庄さんがのしょうから兵を集め、早井坂そういざかに城を築いて待ち受けた。
九月二十日午前八時、大衆三千人、官軍二千余騎の計五千人が早井坂に押し寄せたが、大衆は大衆で、官軍に先陣をと願い、官軍は大衆を先登にと思うので、思うようにも戦うことが出来ず、そのうち、城内から石垣をはずして石を転がしたので、大衆、官軍の死者は数知らず、又々戦は堂衆の勝利に終わった。堂衆に味方している者の中には、諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊といった命知らずの者が多く、自分一人と思い切って戦うので強いのである。
その後、山門の荒廃ぶりはひどかった。山門に住む人は極めて稀で、真理の都と言われ、上下の人々の尊敬と信仰を集めていた面影は、一つとしt残っていなかった。
今や、三百年の歴史を誇った天台宗の法灯をかかげようとする者もなく、昼夜の別なくたかれていた香の煙も絶えようとしている。かつては青空に聳え立っていた堂舎もすっかり荒れ果て、金の仏像も雨に濡れる有様であった。
こういう様相は日本ばかりでなく、遠くは仏教の発祥地である天竺てんじくでも、竹林精舎、給孤独園といった聖地も、狼や狐のすみかと化し、又、中国でも、天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺おいった有名な仏寺が、住み手もないままに捨ておかれているらしい。
わが国の奈良の七大寺は荒れ果てているし、昔は堂舎が軒を並べていた愛宕、高雄も天狗の住家になってしまった。
こういう世の有様を見ると、あれ程、尊かった天台の仏法が亡びるのも無理はないかも知れないが、それにしても惜しいことである。
人のいなくなった僧房の柱に、こんな歌が書き付けられていたという。
   祈りこし 我が立つ杣の 引かえて
       人なき峰と なりや果てなん
これは伝教大師が、叡山創立の時、阿耨多羅、三藐、三菩提の仏達に祈った時、「阿耨多羅、三藐、三菩提の仏達、わが立つ杣に冥加あらせ給え」と祈られた時の言葉を思い出して詠んだものらしかった。
2023/11/19
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