鬼界ヶ島に流された、俊寛、康頼、成親の三人は、少将の舅、宰相教盛の領地である肥前、鹿瀬庄かせのしょうから、何かにつけて衣類や食物を送らせるように手配して呉れたおかげで、どうやらこうやら生きることだけは出来たらしい。
康頼は、かねてから出家の志を持っていたが、流罪の途中、周防すおうの室積むろづみで出家し、性照しょうしょう
と名乗った。
ついにかく そむいはてける 世の中を
とく捨てざりし ことぞくやしき
これはその時の歌である。
少将と康頼は、前から熊野権現の信者であったから、何とかこの土地にも熊野権現を、祭って、一日も早く帰京のかなうように日夜帰参しようという相談が持ちあがった。
「どうじゃ、俊寛殿、貴方も、この計画に一枚お加わりなさい。都へ帰参の望みもかなうかも知れぬ」
二人が熱心にすすめても、しかし、俊寛は、ばかばかしそうに首を振るばかりであった。
康頼と少将は、そてならばと今度は二人だけでどこか熊野に似た場所を探そうと、島のぐるりをあちこち歩き廻ってみた。
こんな島ではとてもみつからないのではないかという懸念を破って、眼の前に熊野の山そっくりの場所を見つけた時は、夢かと思うほど喜んだ。
丁度紅葉の頃で、林は錦繍きんしゅうの装いに包まれていた。雲かと思えるばかりに聳え立つ峰々は、淡い薄絹に包まれたように、ほのぼのとした色どりをみせている。
南をはるかに見下すと、果てしなく続く大洋が、漫々と水をたたえ、北は峨々ががたる山岳から、ほとばしる滝のしぶきの白さが、目にしみるようであった。それはまのあたり、紀伊の熊野が、そこに立ち現れたような錯覚さえ与えるほどよく似ていた。
「ここは本宮ほんぐうといたそう」
「それではこちらは新宮しんぐうがよかろう」
あちこちの峰にも、いろいろ名前をつけて、康頼を先登に、少将と二人毎日、熊野詣のまねごとをして真剣な祈りを捧げていた。
「南無権現なむごんげん金剛童子こんごうどうじ、願わくば憐れみをおかけ下さいまして、都へ帰し、妻子の顔をもう一度見せて下さいますように」
これが毎日続くと、着替えの浄衣もないから、麻の衣を身につけ、沢の流れで水ごりをとりながら、岩田川の清流にみたてるのである。
康頼は参詣の度ごとに、形通り祝詞のりとを捧げることにした。御幣紙ごへいがみなど気の利いたものもないから、花を手折って代用にしていた。
「維いあたれる歳次さいじ、治承じしょう元年丁ひのとの酉とりと、月並びは十月とつき二月ふたつき、日の数、三百余ヵ日、吉日良辰りょうしんを選んで、かけまくも、かたじけなく、霊顕は日本一なる熊野ゆや三所権現、飛竜大薩埵ひりゅうだいさったの教令きょうりょうのご神前に、信心の大施主せしゅ、少将藤原成経、ならびに沙弥性照しゃみしょうしょう、一心清浄の「誠をいたし、三業一致さんごういっちの志をぬきんで、謹んで、敬い申す。それ、熊野本宮の阿弥陀如来は、済度苦界の教主、法身ほうしん、報身ほうしん、応身おうしんの三身を具そなえたる仏なり。或は早玉宮本地はやたまぐうほんちの薬師如来は、衆病悉除しゅうぼうしつじょの如来なり。或は、血宮の本地薬師如来は衆性救済の仏等覚の菩薩なり。熊野第四宮十一面観音像は娑婆世界、苦を救い無畏むいを施す仏にして、頭上の仏面を現して、衆性所願をみて給えり。是によって上一人かみいちにんより、下万民に至るまで、或は現生安穏のため、或は後性善処のため、朝に浄水を結んで煩悩ぼんのうの垢をすすぎ、夕べに深山に向って宝号を称うるに、感応なき事なし、峨々たる嶺の高きをば、神德の高きに例え、峨々たる谷の深きをば、仏の誓いの深きになぞらえて、雲を分けてのぼり、露をそいのんで下る。ここに、菩薩の利益りやくを頼まずば、いかで嶮難の路を歩まん。権現の徳を仰がずんば、何ぞ幽遠の境にましまさん。依て証誠大権現しょうじょうだいごんげん、飛竜大薩埵ひりゅうだいさった、青蓮慈悲せいれんじひのまなじりを相並べ、さおしかの御身をふりたて、我らが無二の誠心を知見ちけんし、一つ一つの願事きき入れ給え。結むすぶ、早玉はやたまの両所権現、各々その機に従って有縁うえんの衆生を導き、無縁の郡類を救わんため七宝に飾られたる極楽の光を捨て、六道三有ろくどうさんうの煩悩の塵ちりにまじわり給え。故に定業じょうごうを転じ、長寿を求め、長寿を得るため、礼拝袖を連ね、幣帛礼奠へいはくれいてんを捧ぐる暇なし。忍辱にんにくの衣を重ね、覚道かくどうの花を捧げて、神殿の床を動じ、信心の心地水の如く澄ませたり。神明納受し給わば、願い事何ぞ成就せざらん。願わくは、十二所権現、左遷の愁いを休めて、帰洛の本懐をとげさせ給え」
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