この話は洛中に広がっていった。特に、清盛までが哀れに思ったというので、いつしか康頼の歌は、京の、上下、老いも若きもが、鬼界ヶ島流人の歌として口ずさむようになった。
千本作った卒塔婆だから、それ程大きいわけはなく、むしろ小さなものだったろうに、波に押し流されることもなく、はるばる万里の波濤を越えて故郷に届いたのは、やはり康頼の一念が通じたのかも知れない。
ところで、これに似たような話が、中国の故事にある。
昔、漢の武帝が胡国ここく李少卿りしょうけいを大将として、三十万騎を差し向けたが武運拙く敗れ、李少卿は捕虜になった。
次に蘇武を大将として五十万騎を派遣したが、これも散々の敗け戦である。六千余人が生捕られ、その中に蘇武も含まれていた。
胡国は、彼らのうち重立った者六百三十余人の片足を切って追放した。その殆どが死んでしまった中で、蘇武一人は生き残った。不自由な片足で、野山の草の実を拾い、野草を食べ、どうにか生き長らえていた。野原に降り立つ雁の群さえ、蘇武の姿を見て、逃げるものは一匹もいなかった。この雁は秋になるとここを去って遠く漢の都へ飛んで行くことに気のついた蘇武は、一羽の雁の足に手紙を結び付けて、心から漢王の手に渡してくれるように祈った。
漢の都では、ある日漢王が上林苑にいる時、一群の雁の列から一羽がさっと舞い下りて、手紙を落した。不思議な事もあるものかなとそてを開いてみると、
「巌窟がんくつに閉じ込められて三年、今では、荒れ果てた曠野こうやに捨てられ、一本足の身で生きています。たとえこの身は胡の国え死んでも、魂は決して君のお側を離れぬつもりです」
とあった。
「何と、まだ蘇武が生きていた、これはまさしく蘇武の筆跡」
驚いた漢王は、今度は百万の大軍を胡国に差し向けた。今度は漢の勝利となったので、蘇武は、びっこをひきひき官軍の陣営を訪ね、蘇武であることを名乗った。十九年の後、蘇武はやっと故郷へ帰ることが出来たのである。漢王は大いにその志に感じ、高官に任じ、大国を与えて労をねぎらった。
一方李少卿も、国へ帰りたい心は同じだったが、胡王が許さないので悶々の日を送っていた。そうとも知らない漢王は、不忠の男だ、と死んでいた両親を掘り起こして鞭で打ったり、親類縁者をそれぞれ罪に服させたりした。
このことを伝え聞いた李少卿は、恨み悲しみはしたが、なお故郷恋しの一念やみがたく、筆をとって、不忠ではないことをこまごまと記して送った。漢王はそれを読んで、自分の行為をひどく悔やんだそうである。
漢国の蘇武は、雁に便りを託し、我が国の康頼は、波に便りを託して想いを故郷に告げた。
上代と末代、胡国と鬼界ヶ島と、土地こそ変れ、心は似たようなものである。
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