~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
あし ずり  ♪
大赦の御使、丹左衛門尉たんざえもんのじょう基康もとやすとその供の者を乗せた船は、目指す鬼界ヶ島に着いたが、広漠とした孤島のさまは、都より訪れた人々に、おそろしく激しい印象を与えた。
船が島に着くや、波に濡れた浜に、一気に跳び下りた基康は、大声をあげた。
「都から流された平判官康頼入道、丹波少将殿はおらるるか」
供の者もこれに和して、口々に尋ねたが、しばしば波の音がこれに応えるばかりであった。
というのも、康頼と少将の二人は例の熊野詣に行っていたからであったが、ただ一人俊寛は小屋のほとりに寝そべったまま、一人京の街を思い、故郷の寺の山々に思いをはせていた。
人の声もまれで、耳にするのは、風の音、波の音、時折島を渡る海鳥の叫びぐらいで、近頃物音に無関心になったいる俊寛の耳に、海辺から人の叫びが伝わって来たのである。愕然がくぜんとして身を起こした俊寛はわが耳を疑った。だが、熊野詣の二人を呼ぶ島人ならざる人の声は、確かに聞こえた。
「これは夢に違いない。寝ても覚めても京のことばかりを思いつめていたためのまぼろし の声だ。悪魔がおれの心を惑わそうというのか。とても現実とは思えん」
と一人わななきながらつぶやく俊寛の足は、飛ぶように声のする海辺へ向った。俊寛は走っているつもりではあったろうが、その形は殆ど倒れながら転がるにも似ていた。
俊寛が使いの丹左衛門基康の姿を認めると、流された俊寛は私だ、と叫ぶのと同時であったが、彼自身、現にあることが、事実か幻か、判別できぬ有様だったのである。
漸く落着いた俊寛の前に、。清盛の大赦文ゆるしぶみをしたためた赦文が差し出された。震える手つきでこれを開けた俊寛は一気に読み下した。
「重罪は今までの流罪によって許す。都に早く帰ることを考えよ。このたび、中宮の安産のお祈りによって、大赦を行なう。故に鬼界ヶ島の流人、少将成経、康頼法師の両人赦免」
だが俊寛の名はどこにもなかった。目を血走らせた彼は赦文の包み紙をひったくるようにして見た。やはり彼の名はなかった。半狂乱になって赦文を隅々まで探したが、求める二字はなかったのである。今こそ俊寛は、これが幻であれと心の中で叫んだであろう。
やがて姿を見せ、ことの成行きを承知して喜色を浮かべた好運の二人、少将、法師の姿も俊寛には見えなかった。彼の欲したのは、ただ二つの文字、俊寛の名前だけであった。同情した二人が共に俊寛の名前の空しい捜索を手伝ったが、結果は同じことであった。
何より彼を絶望させたのは、後の二人に縁者からの手紙言づけの類が山程あったのに、彼には全くなかったことである。
夢から覚めた、いや現実からさめた俊寛の胸には、おれの親類縁者は一人も都にはいないのかという思いが湧き上がってきた。やがて、すべてに見離されたと知った俊寛の口から絶望の声が洩れたのである。
「一体、この三人は々罪なのだ。流された所も同じなら、罪の重さも同じはずだ。おれ一人ここに残すという筈はないのだ。平家が思い忘れたか、赦文を書いた役人の書き間違いか、これはどういうことなのか、おれにはわからん」
狂ったように泣く俊寛の両手には、浜の濡れた砂がつかまれた。汀に打ち伏したまま泣き叫ぶ姿に、誰も声が出なかった。
やおら身をおこした俊寛は、丹波少将のたもとをつかんで、哀訴した。かつての傲然たる面影は全くない。あるのは、都に帰りたい執念が一時に爆発した一人の男がいるだけである。
「俊寛がいまこんな有様になったのも、あなたの父の謀叛からじゃ。あなたも知らぬ顔は出来ぬ筈じゃ。頼む、許されぬとあらば都までとは言わぬ、せめてこの船で日向か薩摩の地まで連れて行ってくれい。あなた方が島にいればこそ、時には故郷のことも伝え聞くことが出来た。今わし一人になったら、それも出来なくなるのじゃ」
俊寛は少将の袂をつかんで離さぬ。袂が島と本土とを結ぶただ一つの橋のように、彼は両手でつかんでいた。俊寛に口説かれた少将は、もともと気性の優しい人だけに涙ぐみながら、何とかこの男に希望を与えようとして懸命に慰めた。
「まことにご尤もな話と思います。われら二人が召し帰されるのは嬉しいが、あなたを見ては行に行かれぬ気持です。お言葉通り、船に乗せてお連れしたいが、上使の方が、それは駄目じゃと、それ、先程からくり返して申しておられる。許されもしないのに三人一度に島を出たと知れたならば、こんどはひどいおとがめがあるかも知れぬ。今やとるべこ道はただ一つ。私が京に帰り、人にも相談をして、入道殿のご機嫌もうかがって、なんとか取りなすつもりです。その上で、お迎えの人をさし上げたいと思うのです。それまで、どうかご辛抱頂きたい。たとえ、今度の赦免で洩れていても、そのうち必ずお許しがある筈です」
言葉を尽くした少将の慰めも、俊寛の耳には入らなかった。何としても帰りたい一心の彼は、船に飛び乗って、京に帰るのじゃ、と叫んだかと思うと、波打際に飛び降りては、潮を浴びたまま、連れて行ってくれいと号泣するのであった。
帰京の喜びに出発の準備も弾む少将、法師も、さすがに哀れに思わざるを得なかった。
乏しい持物の中から、二人は形見を残してやった。少将は夜具、法師は「法華経」である。
やがて船出の時が来た。ともづなが解かれ、船は押し出された。一行を乗せた船は漕ぎ出された
だが、俊寛はともづなから離れなかった。綱とともに海に入った俊寛の腰から胸へと波が洗っても、彼は船とともにいた。人びとの制止の声にもかかわらず、背が立たなくなれば、泳いで船にすがりついた。そして血を吐くような声で皆に頼んでいた。
「どうしてもわしを見捨てるのか。お願いじゃ、都とは言わぬ、九州のどこへでも連れて行ってくれい。日頃の情をかけて下され」
俊寛の叫びに耳をおおうようにした一行は、船にとりつく彼の手を払いのけて、ようやく漕ぎ出すことが出来た
汀にとどまったまま打ち倒れた俊寛は、泣き叫びながら、足ずりした。幼児が母親を慕って泣くように、俊寛は足を砂浜にすりつけて、わめき叫んだのである。
「わしを乗せてくれい、どうか連れて行ってくれい」
このくり返された叫び声は、白波を跡に沖へ漕ぎ出す船を何時までもとらえていた。
立ち上がって、船を探した俊寛の目は涙にくもって、何も見えなかった。
夢中で島の小山の頂きに走った彼は、波の間に小さく消える船を見つけた。今や声も枯れ、涙も果てた俊寛は、ただ両手を何時までも船に向って降り続けるのだった。
船が暮色の海に溶けるように薄れて消えると、鬼界ヶ島を夜が包んだ。一人になった俊寛には、今日一日のことが幻の様に思われる。抱きつづけていた夢が残酷な現実といなった。
打ちのめされた彼のさまよう足取は、何時しか運命の水際にきた。一人で苦しむより、むしろ、思い切って死のう。海に身を投げて命を捨てようと何度も考えた彼を、思いとどまらせたのは、かねてから優しい心をみせていた少将に僅かな希望を託した言葉であった。思いやりのある彼のことだ、京に帰れば有力者も身内に多いのだから、入道に頼み込んでくれるに違いない。そしておれも遅くとも来年には、などと、夜の浜に打ち伏したまま、星夜の中に京へのなつかしい想いを思いたどるのである。
2023/11/28
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