~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
御 産  ♪
鬼界ヶ島を立った丹波少将らの一行は、肥前加瀬かせしょうに着いた。宰相教盛は使いをやって、「年内は波が荒く航海も困難であろうから、年が明けてから、京に帰るがよい」
と言わせたので一行はここで新年を迎えることにした。
十一月十二日未明、中宮が産気づかれた。この噂で京中は沸き立ったが、御産所の六波羅の池殿いけどのには、法皇が行幸さrてたのをはじめとして、関白以下、太政大臣など官職をおびた文武百官一人も洩れなく伺候しこうした。
これまでに、女御にょうご、の御産の時に大赦が行なわれたことがあったが、今度の御産の時も大赦が先例に従って行なわれ、多くの重罪のい者も許された。こうした中で、鬼界ヶ島の俊寛が、ただ一人許されなかったのは気の毒なことであった。
中宮は、安産の願立がんだてを行なわれ、皇子がお生まれになったら、八幡、大原野などへ行啓になるということであった。神社は大神宮をはじめ二十四ヶ所、仏寺は東大寺以下二十ヶ所で安産が祈られた。
安産読経の御使には、中宮の侍の中でも官位ある者が選ばれ、何れも平紋ひょうも狩衣かりぎぬに帯剣、お経の施物、御剣ぎょけん御衣ぎょいを捧げ持ち、次々に東のたいより南庭を渡り、西の中門へ静かに出て行く様は、まことに荘厳で美しかった。
中宮の兄に当たる小松大臣重盛は、良いにつけ、悪いにつけ、騒ぎ立てぬ性格であったが、今度の御産のときでも、大騒ぎが一段落してから、長男少将維盛以下の息子の車を続けて御産所に送られ、御衣四十かさね、銀剣七ふり、馬十二頭に引かせて来られた。
なお伊勢大神宮を始め、安芸の厳島神社など七十ヵ所余りに、神馬を寄進し、宮中にも御馬数十匹を奉った。
一方、有名な寺の高僧たちは、安産のためあらゆる秘法を動員して、最後の努力をはらっていた。すなわち、仁和寺にんなじ御室守覚みむろしゅかく法親王は孔雀の法、天台座主覚快かくかい法親王は七仏薬師ぶつやくしの法、三井寺の円慶えんけい法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵ごだいこくぞう、六観音から、普賢延命ふげんえんめいにいたるまで、ありとあらゆる秘法が行なわれたのである。このため、護摩ごまの煙は御所中にもうもうと立ち込め、振る鈴の音は地を這い天にまでのぼる始末、修法の声は身の毛もよだつようにとどろく有様で、これでは、どんな物の怪も退散すると思われた。
ところで、中宮の御産は、陣痛は続くのだが、難産である。なかなか誕生に「ならない。付き添っていた入道清盛や奥方は、ただ胸に手を押し当てたまま、おろおろするばかりで、頼りにならぬことおんびただしい。人びとが、うかがいを立てても、
「どうかうまくやってくれ、よいように急いでやってくれ」
と声をふるわすばかりであった。戦場なら、こんなみじめな思いはしないと、後程人に話したが、人の親清盛の狼狽ろうばいぶりは想像にあまりあるものがある。
このご難産に、殿中でお祈りする者は、房覚ぼうかく性運しょううんの両僧正、俊尭しゅんぎょう法印、豪禅ごうぜん実全じつぜん両僧都などで、何れも僧伽ぞうがの句などくり返し読み秘法をつくした。中でも法皇は、この時、熊野御参詣の前でご精進中であったのだが、わざわざ中宮の帳の近くに坐られて、千手経を声高く読経されたのであった。
「たとえ、どんな悪霊でも、この老法師がここにいる以上近づくはずはない。いまとりついている物の怪は、何れも皇恩で人となったのだから、物の怪に報恩の心はなくとも、たたりをなすことが出来ようか、悪霊共よ、速やかに退散せよ」
といわれると、今まで荒れ狂っていた物の怪もしばしはしずまったのである。さらに、
「女人の難産にも、心を込めて大悲呪だいひじゅを称えれば、鬼神退散、安産疑いなし」
と、水晶の数珠を取り出して押しもむと、中宮はご安産であったばかりでなく、生まれたのは皇子であった。
「ご安産です、皇子ご誕生ですぞ」
と御簾の中から踊るように出て来て、歓び声でたからかに告げたのは中宮亮重衡ちゅうぐうのすけしげひら卿、法皇を初め、関白太政大臣以下の公卿たち、下々しもじもにいたるまで、どっと歓びの声をあげた。歓声は御所から門外に、そして京の街々を包んだ。
清盛は嬉しさのあまり、声を立てて泣いたという。
小松大臣こまつのおとどは、金銭を九十九文、皇子の枕元において心から祈った。
「天を父とし、地を母と定め給え。ご寿命は不老長寿の仙人のように保ち給え。御心には天照大神入らせ給え」
そして古式に従って桑の弓によもぎの矢をつがえ、天地四方を射たのであった。
2023/11/29
Next