~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
少 将 都 帰 り (二)  ♪
三月十六日、少将は鳥羽に着いた。ここは、成親の山荘である州浜殿すはまどのがある。かつて美しかった邸宅も、今は住む人もなく荒れるに任せていた。
苔むした庭園は、人の訪れもないらしい。池のあたりを見廻すと、折柄春風に小波が立ち、紫鴛白鷗しえんはくおうが楽し気に飛び交いしている。昔、この景色の好きだった父、ああ、あの頃は、この開き戸をこういう風にお出入りになっていたっけ、あの木は確かお手ずからお植えになったものだ。──一 つ一つの思い出が、ある事ない事、ぼうっとかすんできて、少将のやるせない慕情を一層激しくかきたてるのであった。
庭のそこここにはまだ春の花が乱れ咲いていた。主人の留守の間にも、花だけは、春を忘れず咲き誇っていたのであろう。ふと少将は知らず知らずのうちに、古い詩歌を口ずさんでいた
桃李とうり不言ものいわず春幾暮はるいくばくかくれぬる 煙霞えんか無跡あとなしむかしたれかすんじ
   ふる里の 花の物言う 世なりせば
      いかに昔の 事を問わまし
いつまでも名残尽きぬ荒れた邸に、いつか月が昇って来ていた。破れ果てた軒の間から、月の光はいたるところに射しこんでくるのである。離れ難い思いが少将の心をとらえるのだった。
しかし都では、迎えの乗物を持って待ちわびている家屋たちがあった。
少将は名残惜しさに泣くなく州浜殿を出て都に向った。都が近づくにつれて、さすいがに喜びは隠せなかった。と同時に康頼との別れも近づいている。
康頼にも迎えの乗物が来ているのに、康頼は少将の車から中々降りようとしなかった。七条河原迄来ても、まだついて来た。花の下で遊んだ半日の客、月夜の宴で一夜を語った友、雨宿りに立ち寄った一樹の下の友、そんな短い友情でさえ別れる時には何かと名残惜しいものなのに、康頼と少将は、二年間、それも荒れ果てた孤島で、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、同じ罪業を背負って暮らした仲間である。別れ難いのももつともな話だった。
少将は、しゅうと宰相の邸に入った。少将の母は、昨日から宰相邸で帰りを待っていたのである。命があったればこそ、といいもたまらず嬉し泣きに泣き伏してしまった。
少将の北の方、乳母の六条の喜びようも一通りではなかった。六条は積もる憂いに、黒髪もすっかり白くなっていたい、かつては、あでやかな美貌をみせていた北の方は、やつれ果てて、この人が、あの人か? と思えないほどの変り方であった。
少将が、都を去る時は三歳の幼児だった息子が、すっかり大きくなって、今は、きちんと髪まで結っている。その側に三歳ばかりの童児がいるのに目を留めた少将が、かげんな顔をして、
「あれは?」
と尋ねた。すぐさま六条が、
「あの方こそ、御下向の時」
と言ったまま、袖に顔を押し当ててあとが続かない。少将も漸く気がついて、
「あの時、腹にいた、そういえば奥がひどく苦し気で、気がかりであった」
と言ってやっと思い出した。
「よくぞ丈夫で大きくなったものじゃのう」
と又ひとしお感慨深げであった。
少将は再び院に仕え、宰相中将に上った。康頼は、東山双林寺そうりんじの山荘で、世を捨てた生活を送りながら、「宝物集ほうぶつしゅう」を書いた。
ふる里の 軒の板間に 苔むして 思いしほどは もらぬ月かな
都に帰ってからの康頼の書簡である。
2023/12/03
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