~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
有 王 (一)  ♪
たったひとり、鬼界ヶ島に取り残されていた俊寛が、幼い頃から可愛がって使っていた有王という少年があった。鬼界ヶ島の流人が大赦になって都入りするという話を伝え聞いた有王は、喜び勇んで鳥羽まで出迎えに行った。「どんなにおやつれになってお帰りだろう、随分辛いことだったろうなあ」
あれこれ考えているうちに、鬼界ヶ島の流人らしい一行が到着した。見送り人のごった返す中で、有王は、俊寛の姿を探し求めたが、それらしい人の姿は見当らなかった。
有王は次第に不安と焦燥を覚えながらも、「そんなはずはない、そんなバカなことはない」と自分に言い聞かせながら、一人一人の顔を覗き込むようにして探した。何度探しても結局は、無駄であった。俊寛らしい人の影は見えないのである。
「もし、一寸お尋ねいたします」
思い切って有王は、人に尋ねてみようと決心した。
「今日ご赦免のあった鬼界ヶ島流人のうちの一人、俊寛僧都のご消息をご存じではありませぬか?」
年端としはのゆかない少年に声を掛けられて、一寸迷惑そうな様子をみせた者も、そのひたむきな眼差しを見て、驚いたらしい。
「あの方はな、まだ罪が許されずに、島に残されたという話じゃよ」
「それは、真実のことでございますか?」
「お前様には気の毒なようだが、本当のことらしい。係りの役人もそう言っておったようでのう」
有王は、すっかりがっかりして、疲れた足を引きずって京に戻って来た。
それから有王の六波羅通いが始まった。もしやご赦免のお沙汰でもないかと、六波羅の邸のあたりをうろうろしたり、人の話に聞耳をたてたりした。しかし、一向に赦免の様子もなく、日が過ぎて行った。
ある日、有王は決心した。「このままべんべんと六波羅の許しを待っていたのでは、いつになるかわからない、ひとつ、自分が訪ねて行って見よう」
思い立つと、有王は直ぐに、俊寛の娘が一人でそっと隠れ忍んでいる所に行って、自分の決心を語った。
「この度のご大赦には、何とも残念な事、僧都お一人お許しが出ず、その後もいろいろ調べてみましたが、当分ご赦免のご様子もありませぬ。そうとなれば、私が、何とかして島に渡り、お行方をお尋ねして参りたいと思います。就きましては、姫君自らのお文を頂戴できれば、どんなにかお喜びになりますことか」
姫の手紙をしっかり元結もとゆいに隠し込んで、有王は身軽な装立ちで都をあとにした。両親にも知人にも、誰にも知らざず、こっそり出発したのである。
四月の末であった。
苦しい旅路を続けて、どうやら薩摩潟さつまがたに着き、薩摩から鬼界ヶ島へ渡る商人船の船着き場で、この土地に見慣れぬ有王の風体を怪しむ者がいて、着ている物をはぎ取られて調べられたが、元結の中に隠した姫の手紙は、うない具合に見つからなかったので、どうやら事なきを得たのであった。
幾多の危険を冒して、漸く目指す鬼界ヶ島へ着いた時。有王は、聞きしに勝る荒漠たる風景に驚かされた。
田もなかった、畠もなかった。もちろん村とか里とかいったものも見当らず、たまに通りかかる島の土着民は、これ又今まで聞いたことのない言葉で物を言い、何を尋ねtも、話が通じないのである。
「もしや、このあたりに都から流された法勝寺ほっしょうじ執行しゅぎょう、俊寛僧都のお行方、ご存知ありませぬか?」
法勝寺だの、執行だのと言っても、馬の意耳に念仏で、ぽかんとして、みんな有王を見ていた。島の人の一人が、それでも漸く話が解ったらしい。
「さあてねえ、そんな人は三人いたようだったがなあ、何でも二人は都へえって、残った人は一人でぶらぶらしていたようだったが、この頃は見えねえようだな」
とそれだけ教えてくれた。
今は有王が独力で探す以外に方法がなかった。有王は、山から山、峰から峰へと渡り歩き、終日、俊寛の姿を尋ね求めた。 しかい影すらも見当らない。
再び浜辺に戻って来た有王は、暫し茫然と沖の方を眺めては溜め息をついた。
ここまで尋ねて来て、逢わずに帰るのは、何としても残念であった。たとい、今はこの世の人でなかろうと、有王は一目、俊寛の姿を見たいと思ったのだ。人の姿も恐れずに浜辺に遊びたわむれる、鴎や沖の千鳥でもいいから、俊寛の行方を知らせてはくれまいか、有王はつくづくそう思ったのである。
2023/12/04
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