~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
有 王 (二)  ♪
ある朝であった、有王は来る日も来る日も、まだ諦め切れずに俊寛を求めて探し歩いていのたが、
磯のあたりを、よろよろしながら歩いている、かげろうのように痩せ細った人影に出逢った。頭の具合からみると昔は坊主だったのかも知れないが、髪の毛は伸び放題に伸び、藻くずだか、それともごもみだかわけのわからぬいものが一杯ついている。着ている物といったら、絹か布かの区別どころか、ようよう身を掩っているという感じで、骨と皮ばかりのたるんだ肉体が、ところどころから覗いている。
片手にはあらめを、片手には魚を下げて、歩いているとはtぽても見ない。よろよろと地上を這うようにしてやって来るのである。
「都で、ひどい乞食はいろいろ見た事があるが、こんなにひどいのは始めてじゃ、まさか、餓鬼道へ迷って来たわけでもないのに」
有王は、その乞食をやり過ごそうとして、ふと思い直した。「こんな者でも、もしかして、おしゆうの行方を知っているということもあるからな」有王は、乞食に近づくと、いんぎんに声をかけた。
「一寸お尋ねしたいのですが」
「何事?」
「もしや、都から流されて来た法勝寺執行、俊寛僧都のお行方をご存知ありますまいか?」
聞きもやらず、乞食は、まじまじと有王の顔をみつめた。
「おれじゃ、おれじゃあ、俊寛は」
途端に彼は、手の持っていた物を投げ捨てるとその場に倒れ伏してしまった。
さすがに、有王も唖然あぜんとして言葉が出なかったが、すぐさま、抱き起こすと膝の上に抱きかかえて、むせび泣きながら、かき口説いた。
「有王でございます。有王が来たのです。はるばる苦しい旅を続けながら、貴方さまに逢いたいばかりにやって来たというのに、どうか、お気を確かにして下さい。この有王を来てください」
暫くして、次第に正気を取り戻した俊寛は、もう一度、有王の顔をいる様に見るのだった。
「本当だろうか、本当にお前が来てくれたのだろうか、毎日毎夜、都のことばかり思いつめて、今では恋しい者の面影が、夢かうつつか、わからなくなってしまったのだと。お前の来たのは夢ではないのか? 本当にお前が来たのか? 夢であったら覚めた後がどんなに辛いことか」
「僧都様、これは本当でございますよ。決して夢ではありませぬ。それにしても、ようやくこうやって生き長らえておいでになりました」
「まったくそうなんだ、お前のいうとおりだが、恥ずかしい話、わしは少将が島を去る時、よしなに取り計らうから待てといった言葉が忘れられなかったのじゃよ。おろかなものでのう、その一言に、もしやと頼みの綱をかけ、一日一日を生き伸びていたのじゃ、何せ、ここは食い物のないところで、わしも丈夫な折りは、山にのぼって硫黄いおうとやらを取り、商人船の来る度に食べ物と代えて貰っていたが、体が弱ってからは、網人や釣人に手をすり合せて、さかなを恵んで貰い、時には貝を拾い、あらめをとって命をつないでいたのじゃよ、それにしても、ここでは落着いて話も出来ん、まあ家に参ろう」
「家?」
有王は思わず聞き返しそうになるところを、ごくりと唾を飲込んだ。この有様で家を持っているというのが、どうしても信じられなかったのである。
しかしやがて、松林の中に案内されて、家の前に立った時は、余りのみすぼらしさに胸が一杯になってしまった。
家とは名ばかりの、竹を柱とし、葦を横にわたし、床と屋根を松葉で覆った、それだけの住居であった。これでは、雨や風は吹き放題漏り放題、どうやって雨風をしのいでいるのかと思われた。それにしても、かつては、法勝寺の事務職で八十余カ所の荘園を管理し、四、五百人の家来に取り囲まれて、気ままな生活を楽しんでいた人のなれの果てにしては余りにもみじめであった。
2023/12/05
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