~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
無 文 の 太 刀  ♪
重盛は、未来を予見する不思議な能力を持っていた。これは生前の話であるが、ある夜、重盛は夢を見た。場所ははっきりとはわからないが、どこかの浜辺を歩いていると、道の傍に大きな鳥居がある。「これは、どこの鳥居だろうか?」と道行く人に聞いてみると、春日大明神の鳥居ですと答えた。鳥居の周辺には、何やら人が集まって騒いでいる。よくみると、その中に、坊主頭の首を高々とさしあげている男がいた。あの首は、一体誰のものか、といって尋ねると、「これは平家の清盛公の首じゃ、あまりにも悪行が過ぎ、当社の大明神によって、召し捕らえられたのじゃ」と答える者があった。その声に重盛が、はっと思った時、目が覚めたのである。しかし考えれば考えるほど、近頃の平家一門の思いあがり振りが気になって、なかなか寝つかれない。そこへ、ほとほとと、忍びやかに戸を叩く者があった。こんな夜更けに一体誰が来たのかと思って尋ねると、それは、瀬尾太郎/rb>せのおたろう兼康かねやすであった。
「今時分、一体何の用で?」
「されば、唯今、不思議な夢を見たもので、どうにも夜の明けるまで待っていられず、深夜と知りつつ参上仕りました。何卒お人払いを」
兼康の真剣な顔つきから、何事かを感じ取った重盛は、人払いをしてから、彼が見た夢の話を残らず聞いた。それが驚いたことには、重盛が見た夢と寸分も違わぬものであった。重盛は、今更に平家の行末に思いを馳せて深いため息をついたのである。
翌朝重盛が、院の御所へ出勤する維盛を呼び寄せると、
「親の欲目ということがあるが、そなたは、わが息子どもの中では、とりわけ出来のよい子じゃ、ゆくゆく、人に抜きん出て出世もいたすであろう。しかし近頃の世の中の様子では¥、この先どんなことがあるかもわからぬのう、そなたも苦労するであろう、こら誰か居らぬか貞能は居ないか? 少将に酒を」
と言って酒が運ばれて来ると、重盛が三度うけ、続いて少将も三度飲み乾そうとした時、重盛が、
「少将への引き出物をこれへ」
と言った。重盛の言葉に、貞能がつと立って錦の袋に包んだ太刀たちを捧げ持って来た。
維盛は、すぐにそれが家の宝刀と言われる小烏こがらすという太刀である事を知って、内心喜びを押さえ切れず、膝を乗り出して押しいただく、さっと袋から散り出した「。途端に維盛の顔色が変って青白くなった。維盛は、貞能の方を訊問じんもんするように睨みつけた。それは、小烏どころか大臣葬だいじんそうの時使われる無文の太刀だったからである、重盛は、維盛のいきり立つのを片手で制しながら、静かな口調で言った。
「そんなに起こるものではない、それは貞能が悪いのではない。この私の心遣いなのじゃ、そなたも一目でおわかりのはずじゃが、これは大臣葬の時用いる無文の太刀じゃ。清盛公に万一の時があったら、この重盛が着用に及ぶつもりで、持っていた物じゃ。今、入道殿に先立つ身の私としては不必要な品、これをそなたに譲ろうと思うのじゃよ」
人生の宿命を観じ取った父重盛の言葉に、維盛は返す言葉もなくい涙ぐんでいた。
この事があってから、熊野詣があり、重盛は間もなく帰らぬ人となったのである。
2023/12/09
とう ろう  ♪
生前から、来世の幸不幸を案じていた重盛は、東山の麓に四十八けんに精舎を建て、一間いっけんに一つずつ灯籠を置き、毎月、十四日と十五日には、容貌の優れ若い女房を集め、一間に六人ずつ、四十八間に二百八十八人を集めて、念仏を称えさせた。十五日の日中ひなかを満願とし、大念仏を行ない、重盛自らもその列に加わって、極楽往生を願うのであった。重盛を灯籠大臣というのもここから来ている。
2023/12/09
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