~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
法 印 問 答  ♪
重盛に先立たれて以来、清盛は福原の別荘に引き請ったまま、世間に姿を見せなかった。何かというと、清盛の行動を邪魔立てするうるさい重盛であったが、心の底から清盛のことを親身に考えている息子であった重盛が、遠く帰らぬ人となってみると、清盛には、彼のえらさ、立派さがつくづくわかるように思われてならぬのである。
おのれとはまるで異質の息子であり、考え方も随分と違っていた。しかし、親と子の間をつなぐ強い絆だけ、しっかりと結びついている。人の死など何とも思わない清盛が、重盛の死だけはよほど身にこたえたものらしかった。
十一月七日の夜、地震があった。不気味な地鳴りが鳴ろ止まず、人々は恐ろしさに身の縮む思いであった。陰陽師おんようし阿倍泰親あべのやすちか内裏だいりにかけつけて、
「この度の地震は、天下に大事の発生する前兆で、それも年内かこの月の内、又もしくは今日の内という切迫した事態でございます」
と言上した。内裏じゅうこんの予言に色を失い、あわてふためいた。若い殿上人の中には、
「何をあのへぼうらない師めが、人々を騒がせおって」
などとあざ笑者も多かった。
阿倍泰親は、陰陽師として名声を博した晴明の子孫で、その予言の的確なことで定評のある人だったから、彼の言うことに間違いがある筈はなかった。
続いて十四日、
「清盛入道が数千騎を率いて、朝廷に攻め寄せて来るそうじゃ」
という流言が京の町にひろがっていった。まことしなやかなこの噂の出所はハッキリしなかった、人心の動揺いちじるしいものがあった。
関白基房も日頃平家には弱味がある身なので、この噂に怯えた一人である。彼は早速参内して、
「このたび、清盛入道上洛の一件は、この基房を滅ぼす計画のようでございます。どんな目に逢いますことやら、主上のお身の上も気がかりになってかけつけて参りました」
主上も、この基房の奏上には驚かれたらしい。
「そなたがひどい目に逢うのは、結局、朕の身を傷めつけることと同じじゃ、はてさてどうしたものかのう?」
とはらはらと涙を流されたのであった。
法皇にもこの清盛反乱の噂は耳に入っていた。うそにせよ、まことにせよ、現在の情勢で、清盛と対等に物が言えるのは、法皇一人ぐらいのものだったのである。法皇は側近の浄憲じょうけん 印を使者にして法皇の言葉を清盛に伝えさせた。
「最近の内外の情勢は、未だ予断を許さず、人心の不安は、いよいよ拡大する傾向にある。朝廷では世間の成行きすべてに就いて、いろいろと心を悩ましているが、なにくれと頼りにもし、力と頼んでいるのは、その方一人である。それが近頃は、天下の平和を心掛けるどころか、朝廷に向って弓を引くという噂さえあるのは、一体何事であろうか?」
清盛は、しかし使いの浄憲法印を、朝から夕方まで、待たせっ放しで逢おうともしなので、しびれを切らした法印は、使いの趣を源大夫げんたいふ季貞すえさだに言い置いて、暇乞いをして帰ろうとした。
すると、「法印を呼べ」という清盛の声がかかったのである。清盛は法印を前に置いて猛々たけだけしい声でいうのであった。
「法印御坊、わしの言い分も聞いてくれ、重盛の身まかったことぐらい、わしの心に打撃を与えたものは未だかつてなかったくらいだ。そなたもこの清盛の心持を察してくれるであろ。保元、平治の乱と、うち続いた天下の乱れが漸く治ったのも、実は、重盛のかげの力がものを言ったからだ。わしの働きなど問題にはならぬ。とにかく、朝廷の公事百般、もろもろの政治の事にこれほど誠を尽くし、勤め励んだ者があろうか? 親の欲目にしても、重盛ほどの人材がざらに居ようとは思われぬ。昔から、賢臣の死には、君主が礼を尽くして逝去を悲しみ嘆いたものじゃ。しかるに法皇が、四十九日も済まぬうちに八幡に行幸、御遊ぎょゆうあそばされたのは、ひとえに、この清盛、重盛父子を煙たく思われている証拠であろう。更にもう一つ、中納言欠員の際、摂政基実もとざねの子息、基通もとみち公を家柄といい、才能といい、申し分のない方と思い、この清盛があえてご推薦申し上げたのにお取り上げにならず、どう見ても不適格と思われる関白の子息を中納言にされたのは、道理にかなったこととは思われぬぞ、それから最後に一つ」
そこで清盛は一段と声を張り上げて、じろりと法印を睨みつけた。
「例の鹿ヶ谷の陰謀は、何と申し開きなされる。あれは単なる私事の謀叛むほんではない、法皇が一枚加わっておられることは、もうとっくに調査済みじゃ。それ程までに忌み嫌われ憎まれて、子々孫々まで朝廷に召し使われるのも覚束なく、余命いくばくもないこの清盛が今また片腕と頼んだ息子を失い、この浮世にも、嫌気がさしてきた。今迄はいろいろ遠慮もいたし、気も使って来たけれど、これからは自分の勝手にしたいと思い立った次第じゃ」
時には、かっと腹立たし気に顔を紅潮させ、時には又、ホロホロと涙を流して、かき口説く清盛を見ていると、法印は恐ろしさと同時に哀れさを覚えるのである。
浄憲は、鹿ヶ谷の会合にも、法皇のお供でしばしば出席していたこともあり、今又目の前でそのことを言われた時は、さすがに首筋がひやりとするほどの恐ろしさを感じ、このまま、あの事件の片割れとして、なわを打たれでもするのではないかとさえ思ったが、もとより豪気な気性の法印は、気を持ち直して清盛に言った。
「お言葉はよくわかりました。しかし貴方様の功労の大なる事は、法皇も常にお認めになっておられるところです。しかし、鹿ヶ谷の陰謀に法皇が荷担しておられるとは、これは全く、空々しい讒言ざんげんでしょう、小人の言葉を鵜呑みにして法皇のお心に背くことは、臣下の道に外れた事と思いまする。およそ、天空は、青々として果てしなく、測り難いもの、君の心もそのように我々下々には測り知れないこともござります。貴方もこのたびのお腹立ちは尤もなことながら、よくよく考えられた方がお身に為でございます。とにかく貴方様のお言葉は、残らず法皇にしかとご報告いたします」
おもねることなく、悪びれることなく、天下の勢力者、清盛の面前で、堂々と意見を開陳した法印の勇気は、後々までも賞賛のまとになった。
2023/12/14
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