~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
大 臣 流 罪  ♪
法印からの話を聞かれた法皇は、もうそれ以上は何事も仰有おっしゃらなかった。清盛の話を、もっともと思われたのではなく、いっても無駄と諦めてしまわれたものらしい。
十六日になって、突然関白基房始め四十八人の公卿殿上人に、追放の命令が下った。これは、かねがね清盛が考えてもいた事、世間では当然予測されていたのだが、さすがに実際の命令が下ってみると、いささか無理押しの感じは免れなかった。
関白基房は、鳥羽とば古川ふるかわのあたりで髪を下ろして出家した。
「こういう世の中では、こんな目に逢うのも仕方がないことじゃ」
いさぎよい諦めの言葉にも、どこか割切れない淋しさが残っていた。年はまだ三十五歳の男盛り、礼智に長け、公平な者の観方で政治に臨んで来た態度には、各界から異口同音の同情が寄せられた。基房の落着いた先は、備前国湯迫ゆはざまであった。
大臣が流罪に処せられた前例は、今迄に六人程はあるが、現職の摂政関白で流罪となった例は今回が始めてであた。
基房の後任には、清盛の婿に当たる二位中将基通が、破格の昇進で、大、中納言をさしおいて関白に任ぜられた。これ迄にもそのような事はままあったけれども、余りにも情実の見え透いた清盛独断の人事には、人々は苦い顔をしていた。
太政大臣師長は尾張国へ流罪と決まった。師長は、去る保元の乱にも土佐に流されており、その後、流された四人兄弟の内たった一人残って許されて帰京したものである。それからあとは、調子よく昇進を重ね、太政大臣の高位にまで上ったひとである。詩歌管弦、いずれもおとらぬ風流人であったから、尾張国に流されても、専ら、月を友とし、風に心をうたい、琵琶を弾いたりしては、のどかな日々を楽しんでいた。
ある時、熱田明神に参詣し、熱心に琵琶をかなでた。もとより、風流の道などてんから解らぬ村人たちは、この都落ちの貴人見たさに大勢集まって来たが、いつか、その妙なる調べに知らずしらず耳を傾けているのであった。
名手の弾く琴には魚も躍りあがり、歌人の歌うを聞けば塵さえも動くといわれるが、師長の弾く琵琶にはまさにそのように、天地、大自然をも動かすほどの響きが籠っているのであった。
次第に夜も更けてゆく中で、琵琶の音はますます冴えわたるばかりである。今は唯、我を忘れて秘曲を弾き続ける楽人、石像のように押し黙ったまま指一つ動かさずに聞き入る村人たち、──この微妙な雰囲気はまさに絶妙といいたいほどで、とうとう、しまいには、宝殿がぐらぐらと振動したといわれている。やっと我に返った師長は、
「平家のために流罪にならずばこの瑞兆ずいちょうも見ることが出来なかった」
と感激の涙をもらすのであった。
都では、免官される者も多く、重だった者では、按察大納言あだちのだいなごん資賢すけかた、子息右近衛少将兼うこんのしょうしょうけん讃岐守さぬきのかみ源資時みなもとのすけとき参議さんぎ皇太后宮権大夫兼こうたいこうぐうごんけん右兵衛督うひょうえのかみ藤原光能ふじわらみつよし大蔵卿右京大夫兼おおくらきょううきょうのけん伊予守いよのかみ高階泰経たかしなのやすつね蔵人左少弁兼くらんどのさしょうべんけん中宮権大進ちゅうぐうのごんだいしん藤原基親ふじわらもとちからがそれで、そのうちでも按察大納言は、子息、孫共に都を追放の憂き目にあった。
2023/12/16
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