~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
源 氏 そ ろ え (二)  ♪
頼政の弁は熱をおびてきた。あたかも諸国に兵を蓄えてひそむ源氏の網の目に、平家がしぼられて行くような感さえ、宮に与えたかも知れぬ。頼政は語調を変えてつづけた。
「われら源家の者、朝敵を武力で平らげ、宿望を達した点においては、平家に一向劣りませぬ。が、いまは宮もご覧の有様、源平は今や雲泥のへだたり、主従の間柄より劣るのが現状です。国にまいれば国司の家来、荘園では預所に使われている始末、京にあれば、公事くじ雑事ぞうじに追い立てられて、心の安まるひまもない日を送っているのです。ひるがえって今の世を見ますなら、平家の威に服しているように見えるのは表面だけのことです。誰しもその心中、折あらば平家に一太刀というのが源家一統の悲願、この頼政も人後に落ちませぬ。もし宮が思し召し給うて令旨を下されるなら、雌伏する諸国の源氏は令旨を奉じて夜を日についで京に馳せ参ずるは必定、平家滅亡に時日は要しますまい。その儀なれば、この頼政、年こそ寄りましたが、あまたの若き児、孫もござります故、引具して第一番に御許に参じ奉る次第」
宮の胸中は千々に乱れた。軽々しく決するには事は余りにも重大である。筆と笛を愛して、風雅の道に生を終わるべきか、それとも剣を選んで帝位を窺がうべきか、これはまた生か死かに通じよう。しばし承引の返事もなく思いわずらう宮の胸中を一条の 光芒こうぼうが閃いた。相人そうにん上手うまいといわれた少納言惟長これながのことである。惟長は阿古丸あこまる大納言宗通の孫、備後前司びんごのさきのつかさ季通すえみちの子だが、人相をぼくすること当時並ぶ者なしといわれ、人よんでそう少納言と敬された公卿であったが、相少納言は高倉宮をお見て恐るる色もなく言下に答えた。
「皇位に即かせ給うべき御相おんそう、天下のこお諦め給うな」今、宮の胸によみがえったこの言葉は
、源三位頼政の進言と相俟あいまって、強い啓示となった。さては、かくなすべしとの天照大神のお告げに違いなしと宮は信じた。承引の言葉を与えた宮の顔は頼政の眼には蒼白に光って見えた。
ことは隠密裡に運ばれた。令旨を奉じて東国へ下る密使は新宮しんぐうの十郎義盛よしもりと決まった。
十郎義盛は蔵人に任ぜられ、行家と改名した。行家は四月二十八日、ひそかに京を立った。近江国よい始めて、美濃、尾張の源氏どもに令旨を伝達して廻るうちに、五月十日には伊豆の北條、ひるが島に着いた。ここの流人るにん前右兵衛佐さきのひょうえのすけ頼朝よりともに、宮の令旨を取り出して奉った。さらに頼朝の兄、信田三郎先生しだのさぶろうせんじょう義憲よしのりを尋ねて信田しだの浮島へ下り、木曽冠者義仲もおいなので令旨を伝えようと、行家は中山道へ赴いた。
このころ、熊野別当湛増たんぞうは、平家の重恩を受けていたが、どこからこの令旨のことをもれ聞いたのか、
「新宮の十郎義盛は高倉宮の令旨を抱いて、すでに謀叛を起こさんとしている。那智、新宮の者どもは、定めし源氏の味方をするであろうが、この湛増は平家のご恩を山より高く受けている身、いかで謀叛に組し得よう。まず那智、新宮の者どもに矢一つ射かけて、その後、都へことの詳細を報告することにしよう」
と、甲冑に身を固めた兵、一千余を引き連れて新宮の港へ向った。新宮では、鳥居の法眼、高坊たかぼうの法眼、武士には宇井、鈴木、水屋、亀甲かめのこう、那智では執行法眼以下、その数合わせて二千余が陣を構えた。来たるべき嵐の前ぶれともいうべきこの戦は激しかった。
双方ときの声をあげ、矢を射合わせて、合戦の幕は切られた。源氏の陣にはかく射よ、平家の者にはこう射よと、互いにゆずらぬ弓から放たれる矢は絶え間なく飛び交い、射手のあげる雄叫びは衰えることなく続き、鏑矢のうなりは鳴りひびいて、死闘は三日間続いた。しかし、さしも腕に覚えのある法眼湛増も、家の子郎等を数多く射たれ、わが身も傷を負って、命からがら本宮熊野へ逃げ帰ったのであった。
2023/12/25
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