~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
いたち の 沙 汰  ♪
さて、後白河法皇は、成親、俊寛のように自分も遠い国、遥かな小島に流されるのではなかろうかと、お考えになっていたが、そういうこともないまま鳥羽殿に治承四年までお暮しになっていた。この年の五月十二日の正午ひるごろ、鳥羽殿の中でいたちがおびただしく走り騒いだ。常にないことでさる。法皇は何のきざしかと自ら占われて、近江守おうみのかみ仲兼なかかね、その時まだ鶴蔵人つるくらんどと呼ばれていたのを御前に呼ばれた。
「この占を持って阿倍泰親あべのやすちかのもとへ行き、しかと考えさせて、吉凶の勘定状を取って参れ」
仰せを受けた仲兼は、阿倍泰親のもとへ急いだが、折悪しく家におらず、白川まで赴いて法皇の勅諚ちょくじょうを伝えた。やがて卜占ぼくせんした泰親が記した勘定を懐にして鳥羽殿へ急いだ仲兼は、御所の前ではたと立止った。警固の武士が厳重に門を固めている。何と頼んでも門を通さない。御所の勝手知っている仲兼は土塀どべいを乗り越え、大床おおゆかにの下をって、法皇の御座まで進み、御座の切板の隙間から泰親の勘状を差し上げたのであった。法皇がこれを開いてご覧になると、「この三日のうちに、お喜びのこと、並びにお嘆きのこと」と記してある。法皇は、
「この憂き身に喜びのことありとは結構だが、嘆きとは何か。この上また、いかなる辛い目にあうのか」
と仰せられた。
さて翌五月十三日、前右大将宗盛、父清盛入道の所に行き、法皇のことを度重ねて説いたので、清盛もようやく思い直し、法皇を鳥羽殿から出し奉って都へ移し、八条烏丸からすまるにある美福門院を法皇の御所とした。この三日のうち喜び、という泰親の占は、これを指したのである。こういう情勢の中で、新宮の合戦に敗れた熊野別当湛増は、急飛脚をもって高倉宮謀叛のことを都へ知らせたのである。前右大将宗盛は顔色を変えて、この時福原の別荘にあった入道にこれを伝え、入道相国は一瞬疑うように宗盛の顔をみつめて沈黙したが、忽ち顔を朱に染めて激怒した。
「それはまことなら、高倉宮を直ちにからめ取って、土佐のはたへ流してしまえ」
と、こう命じた。この衝にあたったのは公卿で二条大納言実房さねふさ職事しきじ頭弁光雅とうのべんみつまさである。武士には源大夫判官げんだいふのはんがん兼綱かねつなと出羽判官光長に二人。この源大夫判官というのは、源三位頼政の次男である。この人を謀叛鎮圧の使者の中に加えたというのは、平家が頼政の陰謀画策をまだ察知していないということを意味する。高倉宮逮捕の一向は、甲冑に身を固めた兵三百余騎を引き連れて、月明らかな道を宮の御所にへ向った。
2023/12/26
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