~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
のぶ つら 合 戦 (一)  ♪
この日五月十五日、満月である。三条の御所で高倉宮は、雲間にかくれ移る皓皓こうこうたる月を眺めていた。遥か東国に下した密使の行方、そして源氏勢の反応、あるいは俄かに可能性をおびて身に迫って来た皇位のことに思いを廻らせていたのであろうか。雲間をよぎる月の光を浴びた宮の姿は、無心に月夜を楽しむとも見えた。この時、息せき切って宮の御所に現れたのは入道頼政の急使である。宮の御乳母の子、六条亮大夫ろくじょうのすけのだいふ宗信むねのぶは使いの手紙をあわただしく宮の御前にひらいた。
「宮のご謀叛のことすでに露顕、宮を土佐のはたへお流し申さんと、官人ども検非違使別当の命を受けてお迎えに向う。急ぎ御所を出でさせ給い、三井寺へ入らせ給え。この入道頼政も即刻御許に参じ奉らん」
意表をく知らせである。宮は狼狽ろうばいした。才覚すぐれたとはいえ、月をで虫にく風雅の道に今まで過ごして来た宮である。危急の際の身の処置に、殆どなすところなく茫然ぼうぜんとするばかりであった。このとき宮の御前近くにあったのは長兵衛尉ちょうひょうえのじょう長谷部信連はせべのぶつらという侍、進み出て気転の策を申し上げた。
「かくなる上は、もう外に方途はございませぬ。女房装束に変装されて、お逃れ遊ばしませ」
これは妙案であると、側近が手を借して、宮の髪は忽ち解かれて下げられ、衣を何枚も重ねて、市女笠いちめがさをかぶられ 顔をかくした。御所の門を出た女装の宮のお供は、からかさを持った六条亮大夫、袋にものを入れて頭に乗せた鶴丸という童、あたかも若侍が女を迎えて連れて行く姿であった。三井寺へ向って北に落ちて行く一行は道を急いだ。途中に大きな溝があったので、宮は女であることを忘れ、われ知らず軽やかに飛び越えた。これを見た通行人たちは、「なんとはしたない女房の溝の越えようか」といって立止り、いぶかし気に見つめたの、宮の一行はますます足を早めた。
御所の留守居役は、長兵衛尉長谷部信通であったが、残っていた女房たちを御所のあちこちに隠しおき、さて見苦しいものあがあったら取り片づけておこうと部屋部屋を見廻るうちに、宮の居間の枕もとに笛が忘れられているのを見つけた。小枝さえだと名づけられた高倉宮愛蔵の一管である。「これは宮さまご秘愛の笛、余りに心急かれてのご失念か、思い出されればお嘆きあるに相違なし」と咄嗟とっさに笛を掴むと宮のあとを追った。ものの五町と走らぬうちに追いついた信連が、宮に笛を差し出せば、手にした宮の顔は喜色に溢れた。
「われ死なば、この笛も棺の中に入れてくれよ。信連よ、このまま余の供をしてくれぬか」
と宮は頼まれたが、信連は答えた。
「間もなく御所には検非違使の役人どもが参るはずでございますい。その御所に人一人おたぬとはまことに残念に存じまする。その上、あの御所にこの信連いるとは世間もよく存じておること、今夜おりませぬばらば、さぞいかし奴らは夜逃げをしたと思いましょう、これが信連口惜しゅう存じまする。この信連は弓矢取る身、かりそめにも名を惜しみます。ご安心召されませ、押し寄せる役人どもをばしばしあしらった後、一方を打破って、後程、宮のお側に参じ仕ります」
こういった信連はただ一人御所へ引き帰した。
御所の三条大路に面した門、高倉通りへの門もすべて開け放して、信連一人悠然と敵を待っていた。この夜の信連の装束は、萌黄匂もえぎにおいの腹巻をつけ、上には薄青の狩衣かりぎぬ、腰には衛府えふの太刀。やがて御前零時、騎馬の音が門外に近づいた。源大夫判官兼綱と、出羽判官光長の率いる三百余騎である。すでに父頼政の意を体している源大夫判官は、はるか門外にひかえて様子を窺がった。ひづめの音高らかに門内に乗り入れたのは出羽判官光長、前庭に控えると、静まり返った御所の隅にまで轟くばかりの大音声をあげた。
「宮のご謀叛はすでに露顕つかまつった。土佐のはたへお流し申さんがため、別当の命を受けて役人参上、直ちに出させ給え」
声に応じて広縁に姿を現したのは信連である。
「宮はただいまご不在じゃ、したがってここは御所ではござらぬ。宮はご参拝中でいられる。夜おそく大声をあげられても迷惑じゃ。一体何事かな、落着かれて事の子細を申されてみい」
落着きはらった信連の言葉に、光長は逆上した。そして前に増す大声をあげた。
「いうな、この御所でなくてどこに宮が行かれるのか。いないというが、探してみよう。下郎ども、御所へ入ってぬかりなく探せい」
「下郎ども、ものをわきまえぬか、馬に乗ったまま門から入るさえ無礼なことじゃ。あまつさえ下郎が御所内を捜すとはなんたること。入るつもりか、長兵衛尉長谷部信連が目に入らぬのか、近寄って怪我をするなよ」
空はすでに雲が切れて、月が輝いていた。広縁に身構えて不敵に立ちはだかる信連の姿に、役人たちは一瞬声もなくひるんだ様子である。しばし睨み合いの続くかともみえたが、この時、つつっと走り出たとみるや、さやを走らせた大太刀をきらめかせて広縁に飛び、信連目がけて斬りつけた男がいた。検非違使庁の下郎で金武かなたけという者、かねて大力の名をとっていた男である。金武の振舞に、同じ仲間十四、五人も一斉に打物とって、どっと信連を襲った。一歩すざった信連は左手で狩衣の帯紐を一気に引き捨てた。その右手には抜かれた太刀があった。衛府の太刀は装飾もかねるので、一体が華奢きゃしゃな作りだが、信連のは、かねてから事あるべきを期して入念に鍛えさせたもの、野戦の用にも耐える業物である。下郎たちの振るう大太刀、大長刀に信連の太刀が交叉した。力に任せた大長刀が振り下ろせば空を斬り、振り上げた大太刀の相手の胸を信連の太刀が襲った。軽やかな身のさばきから必殺の刃がおどり出て来る。入り乱れて打ち合ううちに、斬りたてられた役人がちりじりに庭へ追い落とされた。嵐に木の葉が散るようであったといわれる。
2023/12/28
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