~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
きおう (二) ♪
あわてて駆けつけた六波羅の役人たちは、燃え落ちた邸に入る一人の男を見つけたので、引き連れた帰った。男は頼政長年の家来で、渡辺源三競わたなべのげんぞうきおう滝口たきぐちという侍である。
「お前は先祖代々三位入道に仕えてきた者であるが、何故主君と共に行かずに、一人、邸にとどまっていたのか」
宗盛自身の取調べに対して兢はかしこまった口調で、ためらいなく答えた。
「私めは、一朝ことあれば真っ先にかけつけて、主君のために命を捧げようと思っておりました。所が今日はどうしたことか、頼政さま一言も私にお話がありません。何も知らない私は仕方なくうろうろしていたのでございます」
「左様か、お前が当家にも見参していたのは承知している。お前の家の将来を思うて当家に味方するつもりか、それとも朝敵となった頼政につこうとするのか、よく考えてありのままを申してみよ」
この宗盛の言葉を聞くと、兢は感動を表わにして、はらはらと涙をこぼした。
「私の胸の内、ありのままに申し上げます。いかにもこの身、頼政さまに先祖代々お仕え申して来ました。宿縁もご恩も感じてはおります。しかし私は朝敵の汚名に身をけがす心は毛頭もございませぬ。この兢、唯今より御殿に奉公いたしとう存じまする」
「それは重畳、お身には頼政の時に劣らぬものを与えよう」
勇武の誉高い兢が奉公を志願したのであるから、宗盛の機嫌は一度によくなった。この日は朝から夕方まで、ことあるたびに兢はおるか、兢はどこじゃと大層なお気に入りであった。十六日も暮れた。宗盛が兢の前に姿を現した時、真心あらわれた顔で兢が言上した。
「奉公始めに手柄一つも立てとう存じますっる。聞くところによりますれば、源三位入道は三井寺におられるとのこと、必ずや夜討など仕掛けるに相違ありませぬ。三井寺の手勢は三位入道の一党、渡辺の郎党たち、それに三井寺の法師たちでございますれば、敢えて恐るるに足らぬ小勢でござります。私めにお任せあれば、夜を幸い寺に忍びまいり、朝敵のうち手強い奴を打ち取ってまいりまする所存、かくすればあとを蹴散らすはたやすきものにございます。が、今はかないませぬ」
「何故じゃ」
と宗盛は思わず吊り込まれた。
「馬がござりませぬ。私も武士のはしくれ、手がけてきた良馬を持っておりましたが、先頃、友人に盗まれてしまいました。いま、御馬一匹貸し賜りますれば、見事手柄を立ててご覧に入れましょう」
兢の語勢に動かされた宗盛は、愛馬に鞍をおかせて貸し与えた。南鐐なんりょうと名付けられた宗盛秘蔵の白葦毛しろあしげである。
南鐐を駆って家についた兢は、妻子郎党を呼び集めて申し伝えた。
「これから頼政さまのいられる三井寺へ参る。合戦には三位入道殿の先陣に進んで討ち死にする覚悟である。皆も肝に銘じてくれ。夜にならば、出発いたす」
動揺にみちた不安な空気のまま京都は夜を迎えた。兢は妻子たちを隠し忍ばせると、南鐐にまたがった。渡辺源三兢の滝口、出陣の出立は、狂紋きょうもん狩衣かりぎぬに大きな菊綴きくとじ、先祖代々に伝わる所の着長緋縅きせながひおどしよろいかぶとは銀の星をいただいている。太刀は怒物いかもの作り、それに重籐しげとうの弓、大中黒の矢、替え馬に乗った家来一人、下郎にも楯を持たせた。わが家にも火を放って焼き払わせると、兢は三井寺へ夜道を疾駆した。
2024/01/05
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