~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
きおう (三) ♪
六波羅へ、兢の家の火災を知らせる使いが飛んだ。驚いた宗盛が急ぎあらわれると、
「兢はおるか、兢はおるか」
と尋ねれば、「おりませぬ」との返事である、。宗盛は激怒した。
「すわ、奴に油断してたばかれたか。遠くへはまだ行くまい、追手を出せい。必ず兢を討ち取れ」
宗盛の激しい下知に家来は御前をあわてて引き下がったが、さて追う勇気のある奴はいない。すでに兢の大剛力、弓の速射では並ぶ者なしと言われていた腕前は、家来どもも十分に知っている。兢の持つ矢が二十四本なら二十四人は死ぬだろう、こう考えると、われこそは、と名乗り出る者もなく、追手は自然消滅の形となった。
この頃、三井寺にあって合戦準備に懸命であった渡辺党は寄り集まって兢の噂をしていた。一人でも手勢が欲しい時、兢の不参は打撃である。それに同族である。渡辺党の一人が頼政に近づくと思い切って申し立てた。
「兢は殿もご存知の武勇の者、何とかして、あの兢を召し連れて来るべきでした」
頼政は不安気な渡辺党の顔を見ると微笑した。兢の本心を熟知している人の笑いである。頼政は慰めうように言った。
「あれほどの者だ、めったなことで捕らわれまい。きゃつはこの入道に心を捧げている。心配いたすな、見ていよ、間もなく兢はここに来るであろう」
という言葉が終わらぬうちに、どっと渡辺の党勢から歓声がわいた。兢、兢という歓迎の叫びである。会心の微笑を浮かべる頼政の前に、武者振り水際立った兢がかしこまった。
「兢、ただいま参上、お土産みやげがございまする。伊豆守殿の「木の下」の身代わりといたしまして、六波羅の、「南鐐」を持参いたしました。伊豆守殿への贈物にございます」
頼政が破顔大笑すれば、かたわらの伊豆守仲綱は踊り上がって喜んだ。しばし三井寺の頼政陣には人のどよめきが流れ、気勢大いにあがった。やがて南鐐は尾の毛を切られて、追い帰された。
六波羅の厩番うまやばんが夜も更けた頃、不図目をさますと厩が騒々しい。起き出してみると、奪われたはずの南鐐が、ほかの馬たちと噛み合っている。驚いた番人が飛び込んで宗盛に報告する。半信半疑の宗盛がかけつければ、間違いなく南鐐である。しかし尾の毛は切られ、
「昔は南鐐、今は平宗盛入道」
と焼印が押してる。宗盛は体をふるわせて呪いの言葉を吐いた。
「油断したのが無念じゃ。よいか、今度三井寺へ押し寄せた時、兢を殺してはなたぬ。必ず生捕るのだぞ。そして鋸でゆっくりきゃつめの首を引ききってやる」
とはいえ、これも後の祭りであった。名馬はもはや昔に戻らぬ姿のまま、怒り狂う宗盛の前でまぐさをんでいた。
2024/01/08
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