~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
大 衆 そ ろ え ♪
三井寺は防備のため山を切り開いて、大小の関所を作った。こうした中で衆徒一同が集まって評定が真剣に行なわれた。
「比叡は変心、頼みの奈良興福寺の援軍はまだ来ていない。このまま徒に時を延ばすのは平家を利するだけだ。直ちに六波羅へ今夜押しかけ夜討をかけよう。ついては、老人と若い者を二手にわける。老僧たちを如意ヶ峰より敵の搦手からめてに向かわせる。足軽どもを先手としてまず白川の民家に火を放てば、六波羅の武士たちは、敵襲と思うてここに駆けつけるにちがいない。この間岩坂、桜本のあたりで防戦、しばらく時をかせぐと共に敵をここへ引きつけておく。こうしておいて、大手の松坂から伊豆守を大将軍として若大衆と勇猛な僧たちが六波羅を襲い、一挙に風上に火をかけて焼き払い、決戦を挑んで強襲すれば清盛入道を焼き出して討ちとれぬことがあろうか」
戦略にけた一人が述べれば、それは妙案であると大衆は賛同した。ところが、かつて平家のため祈禱したことのある一如坊いちにょぼう阿闍梨あじゃり真海しんかいという坊主は、弟子など数十人引き連れて、この評定の席に進み出ると、彼の意見を開陳した。
「私が申すことを平家の為にする言葉と思われては迷惑至極、私とて衆徒としての道義を思い、寺の名を惜しむことは人後に落ちぬものです。昔は源氏、平家ともに朝廷の護衛つとめたものでしたが、今や源家の運傾き平家世を取って草木も従う勢いでございます。見らるる通り寺側の勢いきわめて少なく、これで六波羅へ押し寄せるのは無謀の極みと愚僧思案いたします。それ故、ゆっくり作戦を練り、改めて軍勢を募ってはいかがでございましょう」
無論、この真意は夜討を延引させるためであったが、少勢という現実をついた言葉に大衆たちも一考を要せざるを得なくない破目とはなり、ああでもない、こうでもないという長評定が続く始末とはなった。
この時、衣の下に萌黄匂もえぎにおいの腹巻を着こみ、大太刀を無造作に差し、白柄の長刀を突き立てた僧が進み出ると大音声をあげた。乗円坊の阿闍梨慶秀という者、真海をはったと睨みつけながら言った。
「火急の場に長評定するのはもう聞き飽きた。外に証拠を求める必要はない。この寺建立の願主天武天皇いまだ東宮であらせられる時、大友皇子に襲われて芳野よしのから大和国宇多うだこおりを通られた際の兵、わずかに十七騎であった。しかし伊勢に越え、美濃尾張から集められた軍勢で、大友皇子を亡ぼし位につかれたのだ。窮鳥懐に入らば猟師もこれをあわれむという。他の者はいざ知らず慶秀の門弟は今夜六波羅において討死するつもりである」
りんたる言葉は満場を打った。円満院大輔えんまんいんのたいふ源覚はひざを進めるときびしい声でいった。
「枝葉末端の多い論議はひまをつぶすばかりだ、この貴重な夜がふけるばかりである。急げ、押し寄せて討ち取るべ」
漸く大衆の決意は決まった。たちまち部隊の編成が行なわれた。
搦め手に向う老僧たちの大将軍には源三位入道頼政、乗円坊の阿闍梨慶秀、律成坊りつじょうぼうの阿闍梨日胤にちいんなどをはじめとして、その軍勢およそ千人、手に手にたいまつを持ち進発した。
大手の大将軍には嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人ろくじょうのくらんど仲家、その子蔵人仲光をはじめとし、大衆には円満院大輔源覚、律成坊の伊賀公いがのきみ、法輪院鬼佐渡など、いずれも剛力で弓矢打物をとっては鬼をもひしぐという一騎当千の精強である。このほか平等院、北の院などの強僧も加わり、武士には渡辺わたなべはぶく、播磨の次郎授じろうさずくきおうの滝口などその勢合わせて千五百余人、眉字に決意を秘めて三井寺を出発したのであった。
ところが、寺には堀がひかれ、要所には楯を並べ逆木さかもぎを立てつなれるなど、急造ながら厳重な防備が作られてあったため、軍の進発にはこれを一つ一つ取り除いてゆかねばならなかった。堀に橋を渡し、逆木を取り払うなど面倒な作業を行なって、漸く、逢坂の関にかかった時、鶏鳴が暁を告げる始末、夜襲の時刻は遥かに過ぎてしまった。大将軍伊豆守仲綱は、
「ここで鶏が鳴くようでは、六波羅へ押し寄せる時はもう真昼となる。夜討ちの奇襲ならばどうにか戦える覚悟であるが、昼の戦ではこの小勢で勝目は無い。先手の者を呼び返せ」
と下知した時、もう夜は白々と明けていた。大手、搦手、ともかく兵を帰したが、収まらぬのは若大衆である。夜討ちの時期を失したのは、かの一如坊の長談義のためである、きゃつは平家に寄せる心があるに違いない、裏切者を倒せとばかりに坊に押しかけて、そこの坊主どもを片端から斬り殺した。一如坊自身も満身に傷を受けたが漸くそこを脱し、這うようにして六波羅へたどりつき、これを涙と共に訴えた。しかしこの時六波羅に集まった軍勢数万騎、些かも動揺する気配を見せなかったのである。
こうした中で高倉宮は沈痛な面持で夜も寝ずに考え込んでいた。山門は変心し、興福寺の援軍未だ来らず、この三井寺の手勢では圧倒的な平家の大軍に敵することは難しい、それならここより優勢な奈良に行くのが良策であると、二十三日暁方に三井寺を立つことに決めた。この時宮は二本の笛を持っていた。小枝さえだ蝉折せみおれと名づけられた古今の明笛で、笛の名人とたたえられたため宮がこの笛を受けたものだが、中でも蝉折は宋から渡来して朝廷に献じられたもので、蝉の形をした竹の節があり、あるとき公卿がこの笛を粗末にも膝から下に置いたところ、これを笛がとがめたのか蝉のところから折れてしまったという程のもの、いま宮は三井寺を立つに及んで本堂の弥勒菩薩みろくぼさつに供えたのであった。
宮のお供には、三位入道と渡辺の一味、それに寺の若大衆が従った。宮は老僧たちに別れを告げた。乗円坊の阿闍梨慶秀ははとの杖にすがって宮の前に進むと、涙はらはらとこぼして申し上げた。
「拙僧、宮にいつまでもお従いしたき心にございますが、年すでに八十歳、足もなえて歩くのも困難でございます。代わりに弟子の刑部房ぎょうぶぼう俊秀しゅんしゅうをお召し連れ下さい。この者先年平治の戦で故左馬頭さまのかみ義朝よしともに従って討ち死にいたしまいた須藤刑部丞ぎょうぶのじょう俊通の子にございますれば、その心底拙僧よく存じておるもの、どこまでもお召し連れ下さい」
「今までこれというよしみもなかったこの私に、それほど心をかけてくれるのか」
宮は今さらながら感動の涙を押さえかねた。そして、手勢一千五百人を引き連れて興福寺へ向われたのであった。
2024/01/13
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