~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
橋 合 戦 (二) ♪
このさまを見て続いたのは阿闍梨慶秀の弟子一来法師いちらいほうしという大剛力のもの、長刀を小枝のように打ち振りながら敵を倒していたが、橋桁が狭く前に明秀がいるので進めない、そこで「浄妙房、ご免」叫ぶや、彼の兜のしころに手をかけると一気に跳りこえた。剛力で斬りつける長刀にしばし敵を支えていたが、おめいて斬りかかる敵の胴を見事にいで二つにしたとき、後へ廻った敵兵の刃に死んだ。浄妙明秀はようやく帰って来たが、矢の跡六十三、しかし何れも急所を外れていた。橋上はたちまち混戦になった。三位入道の一族、渡辺党があいついで橋を渡り、刀折れれば敵のを奪い、重傷で倒れれば残る力で腹かき切って川へ飛んだ。両軍の血で橋は染まり、雄叫びは火花の散るほど激しかった。
この橋上の激戦を眺めていた平家の本陣は、次第に焦立ってきた。死物狂いで防戦する頼政一党を破って、橋から宮のいる陣へ突入するには時間がかかる上に、第一狭すぎる。敵が宇治橋の防戦に全力をあげている虚をついて、一気に宮の本陣に全兵力を投入して打ち果したい、それには川を渡らねばならぬが川の深さは計り知れぬ。
平家の侍大将上総守忠清は、大将軍知盛の前に現れると指揮を仰いだ。
「ご覧の如き橋上の激戦、今はこの川を渡る以外には手段はございませんが、五月雨さみだれで増水しているところへ無理をして渡河強行いたしますならば、人も馬も多く失われるは必定、淀、一口いもあらいへまわるか、または河内路まわって、そこから対岸に渡るべきか、二つに一つを選ぶよりほかに道はないと存じます」
これをそばで聞いていた当年十七歳になる下野国しもつけのくにの住人足利又太郎忠綱は、憤然として知盛の前に進むと断固たる口調で進言した。
「淀や河内路まで廻って渡河しよういというお話しですが、支那か印度の兵でも呼んで川を渡そうというのですか。戦をしているのはわれわれですぞ。目の前にいる敵をいま逸したなら、宮を奈良へ落ちさせてしまいます、そうなったら、吉野、十津川の軍勢が宮のもとに大挙して集まるのは目に見えています、これは一大事ですぞ。板東武者のならいとして、敵を目前に控え、川が浅いの深いのと考え込んでいる暇は持ちませぬ。この川の深さとて利根川と余り違いはないはず」
というや、ひらりと馬にまたがり、自分の家来たちの前に来ると叫んだ。
「今こそ死ぬべき時だ、さあ、われに続け」
彼は馬に一鞭くれると、さっと川におどり込んだ。これに勇を得て続く侍は大胡おおご大室おおむろ山上やまかみなどの面々、しぶきをあげて流れに馬を乗り入れる者三百余騎である。そのとき振り返った足利又太郎が、大音声をあげて注意した。
「弱き馬は下流に、強き馬を上流に立てよ。馬の足川床を歩む間は手綱をゆるめ、足とどかずに泳ぎはじめたなら手綱をしめよ。流される者あらば弓を与えて引き戻せ、手を組み肩を相抱いておくれずに渡れ。川の中で弓を引くな、敵射てきても相手になるな、兜を傾けて矢を避けよ、下げすぎては首を射られるぞ。馬に弱く、水には強く当たれ。流れに逆らわず従って渡れよ」
こjの適切な助言は、水に経験の浅い軍勢にたいして極めて効果的であった。かくして渡河の先陣三百余騎は全員無事対岸に辿り着いた。
2024/01/15
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