~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
宮 の 御 最 後 ♪
岸に先手をきっておどりあがった足利又太郎に服装立ちは、赤革威の鎧、黄金作りの太刀、二十四本背に差したる切斑きりふの矢、重藤しげとうの弓を小脇にかいこんで、乗る馬は連銭葦毛あしげあぶみをふんばって声をとどろかせた。
「昔、朝敵将門まさかどを亡ぼした俵藤太たわらとうた秀郷ひでさと十代の後胤、下野国の住人足利太郎俊綱の子又太郎忠綱、生来十七歳のもの、かく無位無官の者が宮に弓を引き奉るは恐れ多いことなれど、弓矢の冥加みょうが平家の上にとどまっているものと存ずる。三位入道の御方のうち、われと思わん人は寄りあい給え、見参せん」
こう名乗りをあげると、足利は平等院の内へ攻め込んだ。
この有様を眺めた大将軍の知盛は、全軍に下知して渡河を命じた。二万八千余騎どっと川に馬を入れれば、さしも早い宇治川の水もたまらず上流に押し返される有様である。
一度押し返された水は激しい急流となって流れ込み、このため伊勢、伊賀両国の兵の馬筏うまいかだが破られてあれよと言う間に水に流される始末だ。萌黄もえぎ緋縅ひおどし、赤威など色とりどりの鎧の兵が浮きつ沈みつ流され、溺れるもの六百余人を数えた。平家の大勢が河を渡ると、そのまま水しぶきをあげて平等院になだれ込んで、両軍必死の戦いが始まった。
三位入道、渡辺の勢が矢を射かけて太刀を振って防ぐ間に、高倉宮は奈良を目指して落ちていった。
源三位入道年すでに七十余り、左の膝かしらを射られて歩行が困難になった。今や心静かに自害せんと平等院の中へ引き揚げようとするとき、追いすがった敵があった。このとき、次男源大夫判官兼綱、この日紺地の錦の直垂ひたたれ唐綾威からあやおどしの鎧を着て奮戦していたが、父の危急を見ると、ただちにとって反して防ぎ戦った。追いすがる武者を斬り伏せたところへ、上総太郎判官のひょうと射る矢が兼綱の内兜を射当てた。がっくり弱る兼綱に上総守の大力の子息次郎丸が馬をさっとそばに乗りつけると、兼綱をむずと摑んで共に馬から落ちた。地転がりながら死力を尽くしてもみ合ううち、大力の兼綱は次郎丸を組みしいたとみるや、腰刀でその首をかき切った。よろめき立ち上がる兼綱の上に、十四、五騎が折り重なって飛びかかった。力尽きた兼綱は此処に首級をあげられたのである。
伊豆守仲綱も、激戦のすえ体に多くの痛手を負うと平等院の釣殿つりどので自害した。その首を打った下河辺藤三郎清親は、敵の手に入らぬようにと大床の下へ投げ込んで隠した。
六条蔵人仲家その子蔵人太郎仲光も共に同じ場所で討死した。平等院に入った三位入道頼政は、渡辺長七唱ちょうしちとのうを召し寄せると、
「わが首を打て」
と静かな声で命じた。涙をはらはらとこぼした家来は、
「私には出来ませぬ。ご自害遊ばしましたら、その後にこそ御首みしるしを頂きましょう」
と声をつまらせている。その顔を見つめた頼政は、かすかに肯くと正座して西方に向いた。しわの多い手で合掌すると、落着いた声で念仏を十度唱えた。口をかたく結んでだ頼政の表情は謀破れた無念さはとどめず、穏やかなものがあったという。再び開いた唇は辞世の歌を詠んだ。
埋木うもれぎの 花咲くことも なかりしに みのなるはてぞ 悲しかりける
老人の手に刃がえて光り、頼政はうつ伏した。涙をぬぐった長七唱の太刀が振られた。主君の首を包んで小脇に抱えた長七唱は走り去った、今やこの首を何としても敵に渡したくないだけである。人気のない河原に出ると、彼は大石を拾い、首をくくりつけると宇治川の底深く沈めたのであった。
宮の勢を破り頼政一味の大将たちを討ち取った平家は、なんとかしてあの兢の滝口を生け捕りたいものと機会をうかがっていたが、もとより心得ていた兢は存分の戦で敵を多数腹かき切って自害した。また円満院大夫源覚は、、もう宮も遥か落ちたであろうと、右手に大長刀、左手に大太刀を持って敵中を突破、宇治川に出るや水にもぐると物具一つ失うことなく対岸に着いた。そして小高い所に走りのぼると大声で嘲弄した。
「どうじゃ平家の者ども、ここまで来られたら来てみるがよい」
しばらくからからと笑うと、三井寺へ帰って行った。
この乱戦の中で、平家勢の飛騨守ひだのかみ景家かげいえはさすが歴戦の強者だけあって、素早く判断を下した。この戦に紛れて高倉宮は奈良へ逃げられたに違いない、今なら間に合うとりすぐった精兵四、五百騎を引き連れると馬に鞭をあて、鐙を蹴って疾駆した。蹄の音どうどうと急追する景家は、やがて光明山こうみょうせんの鳥居付近でおよそ三十騎ばかり宮を守ってひたすら落ちる一群を見つけた。それっばかりに矢が雨のように宮の周囲に降る。両者の距離はたちまちつまった。宮のお伴鬼佐渡、あら土佐、刑部俊秀必死に防ぎ戦ううちに次々と討死、一本の矢が宮の脇腹を射抜いた。体を折って馬から落ちた宮にわらわらと敵兵駆け寄り、宮の首をあげられたのであった。
この時、宮の一行が知らなかったことがある。興福寺の援軍はすでに出発していたのであった。大衆七千余人武装して宮を迎えに出ていたが、先陣は木津まで進んでいた。
宮の討たれた光明山鳥居との距離は、僅かに五十町である。伝令が宮の最後を伝えたので興福寺の大衆は引き揚げたのであるが、僅か五十町の間をもちこたえられず果てられた宮のご運こそ痛ましい限りである。
2024/01/16
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