~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
三 井 寺 炎 上 ♪
五月二十七日、三井寺攻略の軍が起こされた。奈良興福寺と三井寺互に呼応して謀叛の宮を受け入れ、あるいは武装して出迎えるなど、これは朝敵の行為であると平家は断じ、共に討つべしとの声が高まったが、まず三井寺からと軍が編成された。大将軍は頭中将重衡、副将軍に薩摩守忠度、その勢合わせて一万余騎、三井寺向って進発した。寺の衆徒一千余人、死を決してこれを迎えた。逆木さかもぎを設け、関所を数多くつくった。戦は朝六時から矢合せで始められ、十分の一の小勢ながら死物狂いで防戦する三井寺の衆徒に平家も手をやいた。日が暮れ夜に入っても戦は激しくなるばかり、すでに三百余人が討死した寺側の防備のうすいところを狙って夜襲を敢行した攻略軍は、遂に寺に攻め込んだ。
寄せ手の兵が寺の坊という坊に火を放ち始めれば、たちまち三井寺は巨大な焔に包まれた。生き残った衆徒は四散し、寺の火災はいつ止むとも知らなかった。
これで灰燼かいじんに帰したのは、本覚院、成喜院じょうきいん、真如院、鐘楼、護法善神の社壇、新熊野の宝殿など、もろもろの堂舎塔廟六百三十七むね、それに大津の民家一千八百五十三家、この火災で智証大師が唐からたずさえた所の一切経七千余巻、仏像二千余体は灰となった。
三井寺は天智天皇の御願寺ごがんじ、その後智証大師がここを伝法灌頂かんじょうの霊所として園城寺おんじょうじを建てた尊い場所である。が、今はもう焼跡しかない。修行の鈴の音も絶え、仏前に供える水を汲む人影もない。三井寺の首長円慶法親王は別当を免ぜられ、役僧も免官、堂衆三十四人は流罪に処せられた。
このような国土の騒ぎ、天下の乱れはただごととは思われない。平家の世も末になる前兆か、と人々はひそかに噂し合っているが、噂はもう高声で話される始末である。
2024/01/24
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