~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
新 都 ♪
この年六月九日、新都の政治始めとして、造営の計画が練られた。上卿しょうけいには徳大寺の左大将実定卿じつていのきょう土御門宰相つちみかどのさいしょうの中将通親卿とうしんのきょう奉行弁ぶぎょうのべんには、前左少弁さきのさしょうべん行隆ゆきたかが任ぜられ、役人多数引き連れて土地の検分を行ない、和田の松原の西の野を九条まで区割りしたところ、一条から五条までは土地があったが、それ以上の場所がない。この「報告を受けた政府では、それなら播磨はりま印南野いなみのか、この摂津の昆陽野こやのかなどと公卿会議の席上でも討論されたが、実行に移されるとjも見えなかった。新都建設は進まず、人心は浮雲のごとく、すでに住んでいた民はその土地を失い、新たに移って来た者は家の建築に苦しみ、何れも皆心落着かずに茫然ぼうぜんとなる始末である。夢のごとき有様と言えようか。ここに土御門となった宰相中将通親は、再三にわたって開かれた会議で強く発言した。
「異国の例では三条の大路を開き、十二の洞門を立つと書物にある。土地検分では五条あるという、五条の都に内裏だいりが建てられぬ道理はない、まずさと内裏をつくるべきだ」
これが会議に決定となった。清盛は五条の大納言国綱に周防すおうの国を与え、内裏の建設を命じた。
この国綱は当代屈指の富豪であったから、内裏建設はもとより困難ではなかったが、使役される人民の苦しみは尋常一様ではなかあった。かかる乱世に国を還し内裏を造営するなど、時宜に適せぬことである。その昔、民の炊煙の乏しきを憂えられて、内裏には茅をふき、貢物を免除されるなど、上代の聖君は民を恵み、国を富ますことに心を払われたのであるが、それに比べて今のやり方は、などと人々は話し合ったのである。
2024/01/26
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