京に帰ったあと、文覚は高尾の山奥で修行した。この山には神護寺という山寺があったが、久しい間誰も修繕しなかったので荒れるままに放置されている。春は霞に立ち込められ、秋は霧の中に捨ておかれ、痛みきった寺の扉は風に吹き倒された。そのかみ称徳天皇の御代、和気清麿が建立したというこの伽藍がらんも、今は落葉の中に朽ち果て、甍いらかをおかす雨風は、壁が崩れ落ち柱が倒れてむき出しになった仏壇を朽ちさせていた。むろん住持の僧もなく、参拝に訪れる人もないので、この寺の堂内に入るものは日の光り、月の光りだけである。この神護寺の有様を見た文覚は、何としてもこれを再興しようと心に固く誓い、それからというもの勧進帳を手にして檀那だんなを廻り歩き、寄進を募ったのであった。そのある時、文覚は後白河法皇の御所法住寺殿ほうじゅうじどのにやって来た。御奉加賜れと奏上したが、折しも管弦の催しの時だったので、誰もこれを法皇に伝えなかった。いくら待っても一向に返事の気配が見えないので、ついに文覚は意を決した。生来不敵、筋金入りの荒法師であったから、誰も取次がぬものと決めてずかずか中庭に踏み込んだ。もとより御前の礼儀作法は知らぬ。よし知っていたにせよ頓着する男ではない。弦が鳴り渡る中で、
「法皇は大慈大悲の君であられる、これしきのことをお聞き入られぬはずはない」
と勧進帳を引きひろげると、声高らかに読み始めた。高く低く心を込めて弾かれる弦楽を圧するように、文覚のしゃがれた太い声がひびき渡った。
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