~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
もん がく被 流なが され (一) ♪
この時後白河法皇の御前では賑やかに楽が奏されていた。妙音院の太政大臣は琵琶を弾じながら詩歌をみごとに朗詠していた。按察使あぜちの大納言資賢すけかたは和を鳴らし、その子右馬頭うまのかみ資時すけとき風俗ふうぞく催馬楽さいばらを歌い、四位の侍従盛定もりさだは拍子をとりながら今様いまよう を歌うなど、和気藹々あいあいのうちに得意の芸が披露されていた。楽しいざわめきが院中に渡れば、法皇も興がのったのか附歌つけうたを共に歌う。そこへ文覚の音声よどろく勧進帳の読みである。
那智の滝に、山の嵐に鍛えた彼の声には、繊細を尊しとした温室育ちの殿上人の声などはひとたまりもなかった。たちまち朗詠の声は消され、調子は狂い、拍子は乱れた。御遊ぎょゆうは中断した。そして威嚇的な文覚の声がひびき伝わる。法皇が顔色を変えて怒られたのも無理はなかった。
「御遊びの最中というのに何者だ、まことに無礼なやつ、そっ首掴んで放り出すがよい」
この仰せに院中の血気ざかりの者がばらばらと進み出た。その中の一人資行判官すけゆきはんがんという男は文覚を認めると大手をひろげて怒鳴った。
「無礼者め、とっとと出て失せい」
その姿をにらまえた文覚、
「高雄の神護寺へ、荘園一つご寄進頂かぬ限りは、退出いたさぬ」
という。かっとなった資行判官は、つかつかと文覚に近寄ると衿首えりくびつかんで外へ突き出そうとした。と、文覚は手にした勧進帳を取り直すと烏帽子えぼしをいきなり叩き落とし、虚をつかれた資行の胸もとを拳で突き飛ばした。資行はばったりのぞけって倒れた。起き上がると恐怖にかられたのか広縁に逃げあがった。
そしておもむろに懐に手を入れた文覚は、馬の尾で柄を巻いた刀を出すとさやをはらった。氷の刃がぎらっと光る、抜身を構えた文覚は近寄る者あらば刺さんという態度である。これを取り押さえようとする者との間に大立ち廻りが始まったが、右の手に刀、左手に勧進帳振りかざす文覚は、あたかも両刀を操るように見える。荒れ廻る文覚に御遊も琵琶もあったものではない。院は大混乱となった。
その時、武者所むしゃどころにあった信濃国の住人安藤武者右宋は、この騒ぎ何事ぞ、と太刀を抜いて走って来た。これを見た文覚は目をを輝かすと勇んで飛びかかった。一歩すざった安藤武者は、ここで血を流してはまずかろうと咄嗟とっさに思案して太刀を取り直すや、峰打ちを文覚の右腕にくれた。打たれてひるんだ文覚に、太刀をがらりと捨てた安藤武者が組みつた。両人とも剛力の者である。互にえいおうと力の限り上になり下になり転がってもみ合った。文覚力を込めて安藤武者の右腕をぐいと突けば、突かれながら文覚を絞め上げる。その時人寄り集まり、しめたとばかりに手足をばたつかせる文覚を縛り上げた。ほっとした彼らが文覚を引き立てようとすると、文覚は焔を吐くような眼で御所の方をかっとにらむと、大音声をあげた。怒鳴りながら憤怒の形相で躍り上がる、夜叉やしゃのような姿である。
「ご寄進なさらぬばかりか、この文覚を痛い目に合せましたな。必ず思い知らせましょうぞ。三界さんかいに焼ける火、王宮といえども逃れられはしませんぞ。十膳の帝位に誇られる身であっても、黄泉の国に行かれてから、牛頭馬ごずめの責を免れぬのですぞ」
不逞ふてい至極の坊主なり、牢に入れよ」
と文覚は検非違使庁の役人の手で牢に入れられた。
こうして院の騒動は終りをつげたが、文覚に烏帽子を打ち落とされた資行判官は、これを恥てしばし出仕せず、一方安藤武者は取り押さえた賞として即座に右馬允うまのじょうに任ぜられた。
2024/02/08
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