~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
富 士 川 (二) ♪
軍勢は九月十八日福原、十九日」京都に着き、その翌日東国へ向って出陣した。すでに戦の旅路である。平安の身で帰れるとは限らぬ。追討の軍は野を踏み山を越え、河を渡った。荒野の夜露とともに眠り、高峰の苔に枕した。こうして都を立ってからほぼ一ヶ月が過ぎて、十月十六日に駿河国清見きよみせきに着いたが、遠征の途中の国々で兵を集めたので、清見ヶ関では七万余騎を数えた。先陣は蒲原かんばら、富士川に進み、後陣はまだ手越てごし宇津谷うつのやにひかえていた。大将軍維盛は侍大将の上総守忠清を召すといった。
「維盛が思うには、これから足柄の山を越え、広い土地に出て決戦するのがよいと思う」
「お言葉ではございますが、入道殿福原を立つ時に、いくさのことは忠清に任せよと仰せられました。ご覧うじませ、伊豆、駿河の軍勢が来るはずでございましたが、まだ一騎も見えませぬ。味方の軍勢は数こそ七万余騎でございますが、道中の国々から駆り集めた武士たち、今は人も馬も疲れ果てております。関東八カ国の武者は何れも兵衛佐頼朝についておりますから、その数何十万騎になるか存じません。いまはただ富士川を前にして陣をしき、味方の兵力をふやして戦われるのが得策と存じます」
といえば、維盛も止むなくその言葉に従った。
一方、頼朝は鎌倉を立ち、足柄山を越えて駿河国黄瀬川きせがわに着いた。甲斐、信濃の源氏勢が馳せ加わり、浮島うきじまで勢揃いした時には、二十万騎になっていた。その頃、平家方では都に文を届ける源氏勢の雑兵一人を捕らえた。手紙は女房のもとへ送る他愛のないものであったが、その雑兵を忠清は尋問した。
「源氏の勢はいかほどか、隠さず申し述べよ」
と言えば、
下郎げろうの身にございますれば、四、五百、千までの数はわかりますが、それ以上はわかりませぬ。軍勢が多いのか、少ないのか、わかりかねますが、およそこの七日八日の間というものは野も山も武者で埋まってしまいました。昨日きのう黄瀬川で人々が申したことを聞きますと、その勢二十万騎よのことでござります」
下郎の話は至極曖昧あいまいではあったが忠清にも源氏の勢が相当の大軍であるjことは推察出来た。二十万、もし話半分としても容易ならぬ兵力である。
「うむ、これは遅かったか。大将軍の悠長ほど困ることはない、一日でも早く討手を出していたら、大庭おおば兄弟、畠山一族など皆味方に加わっていたはず。彼らが参らば伊豆、駿河の勢は皆これに従ったものを」
と嘆息したが、今更手の打ちようはなかった。
維盛は東国の事情に精通している永井の斎藤別当さいとうべっとう実盛さねもりを召して聞いた。
「実盛は強弓の名があるが、そなたほどの強弓精兵は関東八カ国にいかほどいるのか」
実盛は軽蔑の笑いを込めて答えた。
「君は実盛を強弓の者と思召さるるか。私はわずか十三ぞくの矢を引くに過ぎませぬ。私ほどの者、関東八カ国には数えられぬくらいおります。関東で大矢を引くというのは、何れも十五そく以上の者、弓も強力の者が五人、六人かかって張るものでございます。こうした弓で射られた矢は、鎧の二、三枚は軽く射通します。関東で大名と申されれる武士は少なくも五百騎は養っており、戦場にては、親討たるれば子これを踏み越え、子討たるれば親これを乗り越えて、最後まで戦うのです。西国の軍というのは、親討たるれば子は引き下がって、嘆き悲しんで仏事を営み、いみあけてからやおら戦う、また子が討たるればこれを泣いて攻め来ませぬ。兵糧米ひょうろうまいが尽きれば、春は田作り、秋は刈り収めてから戦うのです。夏は暑い、冬は寒いなどと嫌がる、東国では笑われますぞ。特に甲斐、信濃の源氏たちはこの地に精通しております。富士の裾野から搦手からめてに廻るかも知れません。私がこう申すと、大将軍の御心を脅かすように思召されるかも知れませぬが、毛頭そのつもりはございませぬ。君にあえて申しますなら、戦は兵力の多少で勝敗がつくものではございまさえぬ、一に大将軍の謀によるものと伝えられておりまする」
実盛の言葉は率直なだけに、聞く者に強い効果を与えたようであった。今から震えおののく兵も多かったのである。
2024/02/15
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