~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
あおいの まえ ♪
ある時高倉院は、中宮の女官の側仕えをする少女を、偶然の機会から愛されるようになった。それも、その場限りのたわむれごととかわり、若い純粋なお心で、親しくお側に召されては、いとしく思われる様子で、主人の女官もこのことを知って以来、むしろ少女を、自分のあるじのように大切に扱うのであった。
二人のご交情が、日々こまやかになるにつれて、陰では、何かと、そねみや中傷の声が起こるのは仕方のない事であった。
「全く女に生まれれば有難い幸いですよ、いくいら賤しい身分でも、皇子が生まれれば、国母こくぼとも仰がれるのですからね」
少女の名を葵の前というところから、葵の女御などと岡焼き半分に呼ぶ者まで出て来て。元来、聡明な主上は、もとよりいつかそういった非難も受けるのだろうとはお思いになってはいたが、葵の女御などと呼ばれていることを聞かれて以来、ぷっつりと葵の前を遠ざけるようになった。といって、葵の前に対する愛情が変ったわけではない。むしろ心のうちでは、以前以上に切ない想いに悶々として、心楽しまぬ日を送られているのであった。
時の関白基房はこの話を伝え聞くと、早速主上の御前に伺候した。
「聞くところに依りますれば、葵の前を遠ざけられて以来、お心楽しまぬご様子、それほどに深いご愛情ならば、何の遠慮がありましょう? 人の噂などお気になされず、是非お側にお召おかれませ。また素姓の賤しいことをお気遣いなさるならば、そのご心配は無用かと思います。この基房が、養女に申しうけましょう」
「そなたの志は有難いがのう、これが譲位のあとでもあればさようなことも許されようが、在位の時にさようyなことをいたすと、後々までもそしりを受けるであろう。私事のために、一代の帝位を傷つけたくはない」
といってお聞入れにならなかった。一たんこうと決めたことは、決してひるかえしたりなさらない主上の性格を知り抜いている基房は、それ以上は言わずに退出した。しかし主上の胸中の遣瀬やるせなさは益々つのるばかりで、あるとき、古歌の恋歌を冷泉少将れいぜうのしょうしょう隆を通じて葵の前にお渡しになった。
しのぶれど 色に出にけり わが恋は  ものや思うと 人のとうまで
薄様うすようの鳥の子紙に、水茎のあともなつかしいこの主上のお歌を見た葵の前は、主上の近くにいる苦しさに耐えかねて、里へ下がったが、まもなく病気になり、遂に薄幸な生涯を閉じた。
2024/02/25
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