~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
 ごう (一)  ♪
中宮にお仕えする女房の一人に小督と呼ばれる女官があった。 桜町中納言さくらまちのちゅうなごん成範しげのりの娘であり、宮中第一の美人の噂が高かった。その上、琴の名手である。多くの求愛者の中から、ようやく小督の愛をかち得たのは冷泉少将隆房で、以来隆房は清盛の娘である妻のことも忘れて、小督に通いつめているのであった。
主上が、怏々おうおうとして憂愁の日を送られていることを心配した者たちが、この小督に目をつけたのも無理はなかった。容姿といい才能といい、これ程の女性ならば主上のお悩みも晴れるであろうと相談した結果、小督は否応いやおうなしに内裏に上がることになった。
失望したのは少将である。といって、主上と寵を争うことは考えるだけでも不可能である。しかし、少将は、小督を忘れることが出来なかった。用もないのに参内しては、女房たちのいる局のあたりを、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして一日中、うろつき廻っていた。御簾みす の中から、。少将の焦躁しょうそうが手に取るようにわかる。小督にとってもそれは辛いことであった。しかし、いったん君の想い者になった今では、軽はずみな真似まねは許されなかった。いつまで経っても姿一つ見せるでもなく、声すら掛けようとしない小督の態度に、少将はある日我慢しきれなくなって、小督のいるあたりの御簾を目がけて一首の歌を投げ入れた。
おもいかね こころは空に みちのくの  ちかのしおがま ちかきかいなし
小督は、一たんは返事を書こうかと思い迷ったが、さすがにうしろめいた気がして、側仕えの者に命じて中庭に捨ててしまった。返事が貰えると思っていた少将は、自分の手紙がそのまま戻って来たのを見てがっかりした。しかし、人目については困るので何食わぬ顔で拾い上げ、ふところに入れたが、こうまでされても、いやそれだから一層思いがいやまさるばかり、もう一度戻って来ると、
たまずさを 今は手にだに 取らじやと  さこそ心に 思い捨つとも
と書いて投げ入れた。
小督はそれを一目見ると、余りに少将が気の毒で、せめて声なりとかけてあげたいとは思ったが、やはり思い返して返事も書かなかった。少将も、小督の思いつめた心を知っては今更どうしようもなく、打ちしおれて邸に戻ると、これまた、じっと物想いに打ち沈んだまま、「死にたい」などと口走るようになった。
小督を召して以来、主上の顔色は、日に日に元のさわやかさを取りもどして来られ、久しく聞かれなかった笑い声さえ、内裏の内から洩れるようになった。「小督、小督」と、今は何かにつけて片時も傍を離さぬご寵愛に、小督の心も、次第にこの優しく美しい主上にひかれていくのであった。お側の人々もやっと愁眉を開いて、仲むつまじい二人の様子を、微笑んで眺めるのであった。ようやく高倉帝の周囲にも青春の喜びが立ち返ってきたようで、小督を見つめる若々しい眼差しには、尽きせぬ愛情の想いが、深く込められているのであった」。
この様子に面白くないのは中宮である。近頃では主上のお渡りも稀で、何かにつけて、ひところのこまやかさが影をひそめている。もともと中宮は、四つ上の姉様女房で、そういう意味でのひがみもあったかも知れないが、とにかく憎いのは小督とばかえり、いつか小督を目に仇にするようになった。
高倉帝が小督を偏愛のこと、冷泉隆房の失恋の話などは、いつか清盛の知るところとなった。
「まったく揃いも揃って、わしの婿を二人もたぶらかすとは、希代の悪女じゃ、あの女がいる限りろくなことはない、殺してしまえ」
清盛の怒りをもれ聞いた小督は、恐ろしさに身を震わせた。
「私一人のことはともかく、主上にまでご迷惑がかかっては申しわけない。やはり私は、ここにいるべき者ではない」
思い立った小督は、誰にも知らさずにこそっと内裏を忍び出た。
2024/02/26
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