~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
  ごう (二)  ♪
小督の失踪は、主上にとっては、青天せいてん霹靂へきれきであった。昨日まで生いきと輝いていたお顔が、一日の内にすっかり肉が落ちて、目がくぼんできた。昼は、ご寝所で涙にむせび、夜は、月の光を見ながら、小督のことばかりを思い暮らしておられた。
清盛は、小督の失踪後も変らぬ変らぬご執着に余計憎しみを増したらいい。
「君は小督一人に未だに恋々としておられるらしいが、それならそれでlこちらにも考えがある」
と、主上介添役の女房の参内を許さず、更に、臣下で参内する者には何かと妨害するので、宮中は人一人訪れることもなく、すっかりさびれ果ててしまった。
それは八月十日のことであった。月の明るい晩で、例のように主上は、月を眺めては又ひとしきり小督を想って泣いておられたが、不図思いたって人をお召になった。弾正小弼だんじょうのしょうひつ仲国なかくにが伺候すると、ずっとお側にお呼び寄せになった。
「そなたは、ひょっとして小督の行方を知ってはおらぬか」
「残念ながら、一向に知りませぬが」
「そうかのう、実は、うそかまことか、嵯峨んもあたりに片折戸かたおりどした家にしのび隠れているという話なのじゃ、主人の名はわからぬが、そなた一つ尋ね探しては気てくれぬか?」
「しかし、主人の名もわからぬのに、どうやって探すのでございます? すこし無理ではないかと思いまするが」
「まことよのう」
主上はふっと溜息ためいきをつかれると、はらはらと涙を流された。そのお気の毒な様子に、暫く仲国は考えていたが、不図あることを思い出した。
というのは、小督は琴の名手で、よく御所で琴を弾かれたことがあるが、その時、笛の伴奏を仰せ付けられるのは、いつも仲国であった。小督の琴は仲国の耳の底にはっきり残っていて、いつどこで聞いても、聞き違えることのないほどの自信があった。今夜のような月の良い晩、あるいは、ひょっとして琴を弾かれているかも知れぬ。
そこで思い付くと、国仲は晴ばれとした顔をあげた。
「主人の名がわからずとも、あのあたりは人家も少なく、尋ねてみればわかるかも知れません、一寸行って参りましょう。それにしても、御文ごふみを頂かないとまた、偽のお使いとも間違われても困りますから、何卒ご自筆の御文を下されませ」
「行ってくれるのか? もちろん文は遣わそう、必ず探して参れよ。さよう、寮の馬を借りて参るがよい」
いつもは暗い山里の道も、今日は月の光が明るく、昼間のように白く光っている。馬にむちを当てて、嵯峨のあたりにたどりついた仲国は、これぞと思われる家の前まで来ると駒をとめて尋ね廻った。もしや御堂なんぞに思い、釈迦堂しゃかどう始め二つ三つ探してみたが、無駄であった。小督の消息は依然として知れなかった。仲国は次第に焦々してきた。今頃は、内裏で良い返事を待ちわびていられる主上のことを想えば、このまま素手で戻ることなどとても考えられなかた。途方に暮れた仲国は、唯、思いついたまま、法輪寺を尋ねてみようと決めて道を急いだ。
亀山のほとりまで来た時である。どこからか、かすかな琴の音が風に乗って聞こえて来た。仲国は、思わず、ぎくりとして馬をとめた。松風の音に消されて、それはかすかではあるが、確かに琴に違いなかった。仲国が音をたよりに馬を進めて行くと、片折戸した貧し気な家の中から琴の音が聞こえているのである。しの音色は、まどうかたなき小督の手すさびであった。暫く家の前に立ち止まって耳を傾けると、何と、それは想夫恋そうふれんの曲である。
仲国はやがて我に返って、戸をとんとんと叩いた。すぐに琴の音がやんだ。
内裏だいりより仲国がお使いに参上いたしました、お開け下さい」
大声で言いながら、なおも戸を叩き続けたが、家の内では、こそとも物の気配がしない。じりじりして待つうちにようやく戸が細めに開いて、可愛らしい少女が顔を出した。
「お間違いではありませぬか、ここは内裏からお使いの来るようなところではございませぬ」
仲国は、又閉められては大変と、ぐいと体をのり出して戸の中に入った。そして家の中にもよく聞こえるような声で言った。
「主上は、貴方が身を隠されて以来、すっかり打ち沈んでおしまいになり、お命さえも危ぶまれております。これこのように、じきじきの御文ごふみも預かってまいりました、ご覧下さいます」
仲国の差し出したお手紙を、さっきの少女が小督に取次いだ。見れば確かに主上のご筆跡である。綿々と恋慕の言葉が書き連ねてあった。小督は、今にもくずれそうな心にむち打って、お返事を書き、仲国へ引出物にと女房の装束ひとかさねを添えて渡したが、自分ではやなり姿を」見せなかった。仲国は、装束を押し戴くと、
「他の者ならいざ知らず、普段から内裏で、貴方の琴、私の笛とおなじみ深い仲国が参りましたのに、ご自身のお言葉も下さらないとは、あまりにも水くさい。主上もどんなにか、がっかりなさいますでしょう。何卒お顔をお見せ下さい」
2024/02/27
Next