~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
  ごう (三)  ♪
仲国の懸命の言葉に、小督は奥からまろび出て来た。さすがに、重なる苦労で、すっかりやつれてはいるが、青白い月の光を受けた小督の面差しには、未だ宮中第一の美人の面影が、はっきりと見える。
「お聞き及びの事と思いますが、清盛入道が、私のことを、いかいお腹立ちとのこと、余りに恐ろしくて内裏を忍び出たのでございます。ここに引き籠って以来、琴ともすっかり御無沙汰で過しておりましたが、明日からは大原の里に入って髪を下ろそうと思い、最後の名残にと、この家の者もすすめるので、弾き始めたのですけrど、やはりなつかしくて、ついつい興に乗ったまま、弾き続けて、とうとう貴方様のお耳にも入ってしまったようなわけです」
語りながらも、何度も袖で涙を拭う哀れさに、仲国もついつい貰い泣きするのであった。
「貴方が清盛入道を恐れる気持はお察しいたしまするが、大原にお住みになるなどとは以ての外、貴方ご自身はともかく、主上のお嘆きをどうやってお慰めしたらいいのです、どうかそれだけは思い止まって下さい」
仲国は、お供について来た供廻りの者に、この家の囲りを警戒して小督を出さないように命じると、馬に一むち当て、いっさんに内裏へと急いだ。内裏に着いた時は、もう東の空がほのかに白々と開け始めていた。主上は既にお休みになったかと思ったが、念のためご座所に行ってみると、さっきと同じ所で、身じろぎ一つされず月を見ながら、漢詩を口ずさんでいられた。
みんなみかけり北にむこ
寒温を秋のかりけ難し
ひんがしに出で西になが
瞻望せんぼうを暁の月に寄す
仲国の姿に、主上は思わず身をのり出された。
「仲国、首尾は?」
仲国の話を聞き小督の書いた返事を読まれ、主上の想いは、今更に耐えきれぬものがあった。しばらく物思いに沈んでいたお顔をあげると、主上はきらきらとお目を光らせた。
「仲国、再度ご苦労じゃが、今夜のうちに、小督を連れて参れ」
仲国ははっと驚いた、一瞬、清盛入道の恐ろしい形相が頭に浮んだ。しかし、唇をきっと結ばれた主上の若々しいお顔に流れる決意の色を読み取ると、仲国は黙って頭を下げた。直ぐに車が用意され、嵯峨に向った。小督は、迎えの車に容易に乗ろうとはしなかった。しかし、仲国の言葉にほだされて、仕方なく承知した。一行はこっそり内裏に帰った。再び小督を迎えた主上の喜びは大きかった。人目につかない所に、大事な宝物のように小督を置いて、夜になると、こっそりお召しになるのであった。主上の」ご寵愛は、以前にも増してこまやかで、小督はやがて女の子を一人生んだ。これが後の範子内親王である。
しかし幸福な生活は長く続かなかった。いつか清盛の耳にも達することになったからである。清盛は、小督を捕らえると、無慚むざんにも尼姿にして追放した。このとき小督は二十三歳、やがて黒染の衣に傷心の身を包んで、嵯峨のほとりに庵をつくって住んだという。
一説に、高倉院の健康が優れなくなったのも、このことあって以来といわれる。恋すらも自由に出来ずに薄幸な一生を閉じた帝の、悲しい物語である。
2024/02/27
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